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176.国語の知識

毎週ここにアップするため、日々文章を書いている。

そんな事もあり、日常的に漢字や言葉やその意味を調べる機会も多く、多少他の人より日本語に浸かっている時間が長いのかもしれない。そのせいか、日本語自体に自然と興味が湧いてくる。

改めて少し調べてみた所、日本語というのは世界で1番難しい言語らしい。多少驚いたが、冷静に考えると"そりゃそうか"と納得する部分もある。なにせ平仮名、片仮名、漢字という3種類の言葉を覚えなければならない。

その時、昔仲良くしていたアメリカ人のジャスティンが言っていた言葉を思い出した。

『ニホンゴハァ、カタカーナト、ヒラガーナト、カンジノ3ツアルデショ?ソレハァ、全部覚エタラ、3ツノカントリーノ言葉ヲ覚エルノト同ジダネー』

要は"その3種を覚えた時点で3ヶ国語を覚えた様なもの"と言っていたのだ。少し誇張したな言い回しかもしれないが、それ程までに覚えなければならない量が多いという事だろう。

それだけでも大変なのだが、より理解したい場合はオノマトペやスラングまで覚える必要がある。更に難解なのは漢字一つでも様々な使い方があるという事だろう。

例えば“山"という漢字。これはヤマではあるが、サンとも言うし、ザンとも言う。山を組み合わせた漢字の場合、"山田"程度の組み合わせなら良いが、多少踏み込むと以下様な使い方が挙げられる。

【山梔子 (くちなし) ・山茶花 (さざんか) ・山茱萸 (さんしゅゆ) ・山車 (だし) ・山茶 (つばき) ・山毛欅 (ぶな) ・山羊 (やぎ) ・山桜桃 (ゆすらうめ) ・山葵 (わさび)】

ここまで来ると音読みだとか訓読みを通り越して当て字の領域に入ってしまっている。正直、私は日本語を使えるので《へえ、そうなんだ》程度のリアクションだが、これから学ぼうとする人にとっては絶望を感じるシステムだろう。

当時、ジャスティンから《この漢字はこう読むと習ったのに、何故この漢字と組み合わせるとこんな読み方に変化するのか?》という質問を強い口調でされた事があった。

『ナンデ!?』

『いやあ何でだろ。俺も分からんよ』

『ナンデ!?ナンデワカラナイ?』

『俺が作った言葉じゃねえんだよっ!』

『ナンデ!?ニホンジンナラシッテルデショ!?』

『知らねえって!じゃあお前んとこのeatって言葉、何でEとAとTが組み合わさったら"食べる"って意味になるんだよ?』

『ソレハァ、昔ノアメリカ人ガ決メマシタ』

『それと一緒だ!』

日本語を学ぶ者の頭をショートさせ、その結果口論になってしまった思い出。学ぶ方はそれ程大変なのだろう。

少し話はズレるが、音読みと訓読みに関して思う事がある。

恥ずかしながら私は今の今まで音読みと訓読みが何なのか分かっていなかった。学生時代も"何だそりゃ"で済ませ、大人になってからも“そのうち調べよう"と思っていたのだが、ついにこのタイミングで調べる事にしてみた。世の中の皆さん的には"言わずもがな"という内容かと思うが、こういうことらしい

【「発音を聞くと意味がわかるもの」が訓読み,「発音を聞いても意味がわかりにくいもの」が音読みです。 例えば「首」という漢字の場合,「くび」という読みは発音を聞くと意味がわかりますが,「しゅ」という読みは発音を聞いても意味がわかりません。 つまり,「くび」が訓読み,「しゅ」が音読みということになります】

なるほど。何故こんな簡単な事を分からないままにしていたのだろうと思う程、分かりやすい。じゃあこの学びを忘れない様にする為にはどう覚えれば良いだろうかと考えた。

音読みに関しては、例えば世の中に溢れる音(おと)、ドンとかバンとか、これを文字化したとするとそれを聞いただけでは何なのか分からない。それは音読みの"発音を聞いても意味がわからない"という事と通づるので、何となくその原理が頭に入ってくる気がする。

続けて、訓読みはどうだろうか。"発音を聞くと意味がわかるもの"が訓読みだ。何か覚えやすいキーワードはないだろうかと考えたが、早い段階でその思考は停止した。

《そもそも訓読みの“訓"って何?》と。

そんな言葉普段使わない。どんな意味を持つか想像すら出来ない。という事で訓の事を調べた所、こう出てきた。

【文章や文字の意味が分かるようにする】

なるほど。読んで字の如く《文字の意味を分かるようにする読み方》これが訓読みである。訓の意味を知れば分かりやすい。

だが私は思う。この"訓"の意味を問うて、スッと答えられる人がこの世にどれほどいるだろうか。それ程多くないはずだ。

その“訓“が大手を振って、己の名を冠した【訓読み】などという看板を掲げ《文字の意味を分かるようにする読み方っす》と謳(うた)っているが、《その前にお前自身の言葉の意味が世の中に知られてねえぞ》というこの感じ。⚪︎⚪︎流剣術と名乗っているが誰も始祖を知らない的な。誰だお前感。

ただこの場合、訓に罪は無いと思う。多分名付け親が悪かったのだろう。音だの訓だの言わなくてももっと意味がストレートに通じる命名の仕方があったと思うのだ。音読みは無意味読み、訓読みは意味読みだとか。だが一捻り加わっている。恐らく名付け親が"自分、こんな漢字知ってまっせ"という、己の知識をひけらかす為につけたのだろう。そして図らずも抜擢された訓。可哀想な訓。訓は被害者である。

少しズレるといったものの、気付けば本編を越える文章量になってしまった。全ては訓を慮(おもんばか)る気持ちがそうさせたと理解していただければと思う。

とまあ今更話を戻すと、覚える量やそのシステムなど、ややこしいアレコレがあるのが日本語という事なのだが、日本人でも日本語を間違える事はしょっちゅうある。

読めない漢字があったり、読み仮名を間違えたり、送り仮名を間違えたり。そんな事は日常茶飯事、何処でも誰でも起こり得る事だ。

それに対して"いい大人が日本語間違えてる"とやり玉にあげられたりするが、よくよく考えると世界一難しい言葉を使っているのだから、まあ仕方ないだろと。大目に見ましょうやと。

そんな揚げ足を取る事に躍起になるよりも、せっかく使えるのだからこの言葉が生み出す表現の細やかさだとか、しなやかさ、風流さだとか、そういうのを楽しんだら良いのではと思うのである。

おわり

余談だが『生』という漢字は読み方が158種類あるらしい。嘘の様に思えるだろう。誇張している様に思うだろう。だがこれはマジである。

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