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「死刑にいたる病」からみる愛され術 ニンニン ~ほんとうは怖い?愛され術~

昨日に引き続き
愛され術の話になります

「愛され術ニンニン~世界は愛にあふれている~」の続きになります

セミナーでは
愛され術などない
(万人に通じる「術」のような愛されは存在しない)
というしめくくりで閉じられました

「愛される」は大事?

さて私は
そもそも愛されることは大事なのか?と考えるのです

人は愛されたいと思うものの、それは必須なのか?
「うさぎはさみしいと死んでしまう」
という話はよく聞きます

人間はどうなの?
と考えると

何十年もジャングルに1人で潜んでいた日本兵のように
(1人の時代は短かったようですが)
1人ぼっちでも人間は生きていけるのだと思います(極論ですが)

それはどうして?
と思うと
信念だったり、愛の力だと私は思うのです

愛されるより、愛するということのほうが
人間にとって重い(重要)ような気がします
日本兵の方も、自分のためであればできなかったと思います
国のため、家族のため、愛しているからこそ
孤独の中でも生きてこれたのだと思います(持論です)
※ドキュメンタリーでは「親兄弟のため」と語っていました

愛することを知っている人は、強いと思います

さて、しかしながら
「死刑にいたる病」に描かれている殺人犯はどうでしょうか
(ご存じない方は、
「羊たちの沈黙」の「ハンニバル・レクター」を想像してください)

その人を愛していることを表現し、相手に油断させ
時間をかけて自分に好意を持ってもらい
自分を愛して(=好意)もらってからの
それが幻だったと突きつけることで(死にいたることも)望みを達成

目的のために、愛され術を使用しています
身近なもので言うと人たらし、営業、芸能人などもそうかもしれません
愛され術とは、目的達成のためのコントロール術のように感じられます
なんだか一気に嫌なイメージになってきました

人は一度信じ愛した人のことは
簡単にその気持ちを翻すことはできません
(もちろん同じ人に嫌なことをされた場合は別ですが)

愛していると表現され、好意を持ち、好意を超えて尊敬や愛情を持った時
自分自身が実際に嫌なことをされていなければ、
その人がどんなに悪人だったとわかっても
簡単にその気持ちは翻せないということです

いわゆる洗脳、コントロールですね

ここに上下関係、利害(組織)などが加わると問題が大きくなりますね

愛されたいという気持ちが大きいと
このような目的を持った人に吸い寄せられてしまうのではないかな、と
思ってしまいます

自衛のためにも
「人に愛されたければ、まずは人を愛しなさい」
という言葉がやはり確実なのかなと思います
愛されるではなく、愛するということが一番なのではないかな

それに、私がまだ自己受容絶賛修行中なのでいえることなのですが
愛されることを受け入れるのは、自己受容できていないと難しいんですよね
私は褒められるのも苦手です
いつか自己受容ができたときにはきちんと愛を受け取れると思います

自己受容よりも他者受容のほうが難しくはないのでしょう
そこで「愛し(てから)愛される」なんですかね

自己受容できていない私がなぜ結婚生活を続けているのか
それはひとえに夫が私の成長を認めてくれているからかもしれません
私の自己受容できている部分は、ほんの少しですが
夫が「そのままでいい」「がんばっている」と認めてくれた部分

愛されているから愛する、というより
愛するときには、ただ愛する
そんなシンプルな愛が
一番ではないかなと思いました

そして願わくば
自己受容できている人なら愛しての先に愛されるがある
つまり、愛して とは
一緒に自己受容を手伝ってと頼める人に言えるものなのかも



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