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神様とわからないことについて

あなたとサイクリングをした帰りに、よく近所の神社に参拝していたことを覚えているかな?
ぼくがあなたに1円玉とか10円玉を渡す。あなたはそれを賽銭箱に投げ入れ、がらがらを揺らし、一緒に二礼二拍一礼する。

ぼくはそのときいつも同じことを祈っていました。
「家族が無事に過ごせますように」と。

そんなふうに幾度となく祈っていたくせに、ぼくはあまり「神様」という存在を信じていない。
具体的にそのような存在がどこかにあって、ぼくたちを見ていると思っていないんだ。

ただし人間の手ではコントロールできないことはあるはずだ、という思いはある。
だから祈っていたんだろう。
自分の力では如何ともしがたい事象に対して、ただただ祈っていたんだ。

いままで何度もそうしてきたことで、実際に家族が無事に生きてこられているのかもしれない、という証拠のない決めつけも関係しているのかも。

それに、「家族が幸せでありますように」と心の中で唱えることで、自分のなかの穏やかな感情を引き起こすことができるからっていうのもある。
つまり、自分に酔っているだけなのかも。

科学技術が発展している現代では、いろんな事象が因果論で片付けられていく。
AIなど処理能力の発展のおかげで、インプットされるものが複雑化しても処理しきれるようになって、余計に万事を分析できるような気になっている。

だけどぼくはやっぱり世の中には見通せないことも残っていく、という気がしています。

こわいのは自分では如何ともしがたい事象に遭遇したときに、それを処理できない自分を正当化するためにどこかに拠り所を見つけようとしてしまうことだ。
それがきっと、あやしげな信仰にはまって金銭を貢いでしまうこととか、なにかに過剰に依存してしまうことへとつながるんだろう。

だからあなたにも考えてみて欲しい。
見通せないことがあったとき、どうすればいいのか。それを説明することを、安易になにかに任せてしまっていいのか。
見通せないこと、わからないことはあってもいいんじゃないのか。

わからないことをなんとかして説明しようとすることは人間の性ではある。人間はもともとそうやって因果論で物事を考える傾向にあるんだろうね。そうやって人間社会は発展してきた。
きっと神話とか寓話も、そういった類いのものだろう。
別にそれらが悪いものだとは思わない。むしろ、人間の営みとしてすばらしいことだと思う。そうやって子孫になにかを残して社会が発展してきたのだから。

それでもあなたのなかで処理しきれないようなことがあったとき、わからないことがあったとき、わかろうと努力しても答えにたどり着けなかったとき、それはそのまま置いておけばいいと思うんだ。
いつも正解を見つける必要なんてない。
わからないことを「わからない」と思いながら抱えていけるタフさが、実はとても大切なんじゃないかな。

わからないことが許せないから誰かのせいにしたり悪物をつくったりして、自分を納得させようとする。
なにかにすがろうとして、暗い渦に呑み込まれる。

神様を信じようと信じまいと、それはあなたが決めればいい。
ぼくが伝えたいのは、わからないことをわからないままにしておける強さを身につけて、安易になにかに流されないようにしてほしいってことでした。

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