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我慢すること、待つこと

あなたはよく「なんで?」と聞いてきた。「なんで、犬ってこういう漢字なの?」とか。
それが落ち着いたと思ったら、「これは〇〇だから」と大人を真似て色々と理屈を立てたがるようになってきた。

ぼくも小さい頃はよく「なんで信号が赤だと止まらなきゃいけないの?」とか聞いていたらしい。
そして同じように、いまではいろいろなことを説明したがる。いままさに、こうやって文字にしているように。

子どもが「なんで?」といろんなことを不思議がるのは、きっと人間が結果を求めたい、原因を知りたい動物だからだ。
そうやっていろいろな技術が発展してきて、生活しやすくなってきているのだと思う。

けどじゃあ、すぐに原因がわからないことがあったとして、すぐに結果が出ないことがあったとして、それは不要なものなのかな。
ただじっと耐えたり、待ったりすることは無意味なのかな。

一見、目の前に道がないように見えても、努力を続けたりして備えをもっておくことで、道が開けることもあると思うんだ。
自分がなくなるまで消耗して努力を続ける必要はないけど、腐ることなく日々を生きていくことで、すぐにではなくてもあなたを支えるなにかができあがっていることはあると思う。
まあ、努力の話はこの前したから、そちらにゆずるとして。

とにかく、なにかのきっかけで、いままで関係ないと思っていたことが役に立つこともあると思うんだよね。
と言うか、役に立たないと思うことでも、合理的な説明が成り立たないものでも、あるとき突然まったく違った道が開けることもあるんじゃないかな。

最近は合理的な意見が通りやすいし、実際問題、「こういうものだから」と言われている不必要な慣習も多いから、それを無くしていく努力も必要なんだけど。
だけどやっぱり、無駄なようで無駄でないこともある
というか、無駄だからこそいいものだってあるような気がしている。
合理的な判断は近道を見つけてくれるけど、無駄だと思われるものが気づいたら役に立っていたことだってあると思う。

そしてそれは、たかだかひとりの人間がもっている時間軸では見えてこないものなのかもしれない。
だからきっと、気長に待つということも必要なんだ。
人はすぐに答えを出したがるけど、それをぐっと我慢して、謎や問いを自分のうちに抱え続けられるような強さ。それも必要なんじゃないかな。

安易な答えにとびつくと、誰かにだまされることもあるから。もしかしたら、勝手に決めつけてしまって、誰かを傷つけるかもしれない。
世の中にはパフォーマンスとして、そうすれば人が食いつくとわかっていて、すぐにわかりやすい結論を言ったり断言してくる人がいるから気をつけてください。

あれ。ぼくもそれなのかな。

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