正しさを求めることと多様性[読書日記]

正欲 朝井リョウ 著 (新潮文庫)


 食欲、睡眠欲、性欲、物欲。それらの正しいかたちを求める。なぜなら人間には、自分は正しいと思いたい欲求があるから。正しさを求める欲が。

 ある児童ポルノ事件を報じる記事が置かれ、さまざまな登場人物の視点から語られる生活。そこに蔓延している「正しい性」の圧力。「正しさ」の圧力。それに苦しむ、「正しくない」性のありかたをする人々の物語。
 「普通」の押しつけをいつも不快に思うぼくのような人間に、とてもフィットした物語で、きっと読書なんか趣味にしている人間にはそんな人たちが多いのではないか、とも思う。

 と言いつつぼくも、「性欲」という言葉を前にしたときはどうしても異性もしくは同性への衝動のようなものをイメージしている。
 しかし「性欲」という言葉をそのように安易に認識したままでは、そこから溢れるものの存在を蔑ろにしてしまう。

 それはきっと、ほかの言葉にも言えることだ。
 そしてそのように普段なにげなく使われている言葉たち一つひとつを、しっかり吟味して精査して、炙り出したり分解したり掘り起こしたりすることで成り立っているのが、文学なのだと思う。
 それゆえ、文学は多様性を本質的に描写しうるものだと思う。

 ぼくは多様性を何も疑わずに「良いもの」としてきた。と言うか、多様性の中身について大して考えずに、ただただ鵜呑みにしていたことに、本書を読んで気づかされた。

 気をつけないと、ある言葉を流して理解したり、妄信したりしてしまう。考えずに安易に世の中の流れを享受してしまう。
 そうならないために、その言葉に孕まれている構成要素をしっかりと考えなければならないのだ。

 さて、では多様性はどのように存在可能なのか?
 たとえば、「多様性なんて不要だ」という意見も、多様性のうちに入れてもらえるのだろうか。

 ぼくが物語のなかで不快に思った登場人物たちが宣う「正欲」、つまり「これが正しい」と意識的にせよ無意識的にせよ押しつけたくなる欲求は、実は自分自身のなかにもある。
 だから、これを書いているのだとも思う。
 だけど、それだけでもない気がする。

 正しかろうが正しくなかろうが、とりあえず考えていきたいから、書いているのではないか。

 「こうに決まっている」と物事を決めつけず、いろいろ見て考えて、その有り様に思いを馳せることができれば、それが多様性を押しつけずに自己のまわりにそっと置いておけることにつながりはしないだろうか。
 理解できなくても、いいのではないだろうか。 
 「まあ、あってもいいか」と、思えれば。

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