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賢さと、微笑みについて

タブレットで勉強をしているあなた。字を書く練習とか計算問題、英会話などとても楽しそうに取り組んでいる。
ぼくは親馬鹿なので、あなたは賢いな、と思う。あなたを賢いと思うことでほっとする。
そうして、やっぱりそんな考えをもっていたのだと、自分の傲慢さに気づく。

だって、あなたが生まれたときはもうそれだけで嬉しくてしょうがなかったのに。
それなのに大きくなるにつれて、歩くのが早いとか遅いとか、おむつがはずれるのが早いとか遅いとか、言葉を話すのが早いとか遅いとか、そんなことがどんどん気になっていくんだ。

そりゃあやっぱり、頭脳が運動神経が、性格が、見た目がいい方がいいよね。
そうなんだけど、それでもそれらを強くあなたに求めてしまうことで、そうならなかったときに自分がどう振る舞うのか、ぼんやりと不安を感じるんだ。

そもそも、なぜ賢さが優劣の基準になるんだろうね。賢い人が優れているとされるのはなぜなんだろう。

それはきっと、人類が試行錯誤しながら有益なにかを創り出してきて、それが積み重なって発展してきたからなんだろうね。そしてそこには「社会」と言えるような集団もあって、創意工夫の成果は基本的には周囲と共有されてきた。
つまり社会的動物である人類にとって、楽に生きられるよう創意工夫してなにかを生み出すことのできる存在は価値があった。
価値があるのであれば、それは優れていることになる。
だから賢さは人間にとって優劣の基準となるんじゃないかな。

ほかにも、たとえば会話をするときにまるで漫才の掛け合いのように、リズムよくやりとりをするとすごく楽しかったりする。
そのためには情報をすばやく処理して発信するちからが必要だ。つまり脳の処理能力。
ここでは言語処理だけでなく、瞬時にもっている情報を集めて別のかたちにしてアウトプットするような、創造的な能力も含む総合的なものだろう。だからやっぱり、情報処理能力があること、つまり賢さは優れているとされるんだね。

けどね。ぼくはそれだけじゃあないだろう、とも思う。人間の関係のなかにはまた別の側面もあるんじゃないか。

その人といるだけで、なにも語りあわなくてただそばにいるだけで心が安らぐこと。
あかちゃんをみているだけで微笑んでしまうこと。赤ちゃんなんか、いつまででもみていられるからね。
大自然のなかにいることで言語化できない感覚におそわれて、こころが洗われることもある。

そういったものは情報処理能力という小手先のものとは違う、何か大きなものを内包しているのではないかと思う。
そう考えると、賢さはもちろん優れているのだとしても、「賢くない」ことすらも人になにかを与えられる優れた側面がある気がするんだ。

雄大なものに包まれながら感じるもの。
悠久の時間でやってくる幸福感。
人肌と接触して伝わるあたたかさ。

そういった、言語化しにくい感覚、デジタルな情報には置き換えられないものが、人間の社会にもたらしているものも大きいのではないか。
それらは即効性のあるものとは違うかたちで、じわじわと浸透していくように、人に心地良さを与えてくれるんじゃないか。

うん、ぼくはたぶん最近よくビジネス論に触れていたから、賢い系のお話に疲れているのかも。有能な人が声高に自分やそのまわりの有能さを叫ぶことに、食傷気味なのかも。
彼らの話を聴いていると本当にその通りだと思うし、自分もそうなりたいと思うんだけどね。如何せんぼく自身がそこについていけるだけの能力を持ち合わせていないもので。

って、いつもいつも説教くさい言葉を置いているぼくだって、あなたからすれば食傷気味だよって話なんだろうけど。

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