見出し画像

テレビが何故こんなに力を失ったかを考える

ここ数年、配信やインターネット上のいろいろなコンテンツに視聴者を奪われて、テレビの売上がいよいよ下がってきたとか、テレビの影響力がますますなくなってきたとか、いろんなことが指摘され、議論されています。

でも、そういう傾向は昨日今日始まったのではありません。その萌芽はずっと前からあって、「このままではテレビは危ないぞ」みたいなことは、すでに 20年近く前から言われ始めていたのです。そう、それはテレビがアナログからデジタルに転換(所謂「地デジ化」)するころの話です。

テレビは地デジ化の際にほとんど何も手を打たず、ほとんどの新しい試みを放棄してしまいました。そのことが今のテレビの決定的な敗因であったと僕は痛感しています。

今の僕が何を言ってもただの年寄の繰り言と思われるでしょうし、すでに会社(在阪局)を定年退職しているのでもう何の手を打つこともできません。でも、やっぱりこのことは書いておきたいのです。

地デジ化当時の停滞

地上デジタル放送は 2006年12月までに全国都道府県庁所在地で始まりました。東京・大阪・名古屋ではそれに先立つ 2004年12月にデジタル放送を開始し、並行していたアナログ放送のほうは、デジタル・テレビの普及を待って 2011年7月(東日本大震災の被災3県は 2012年3月)に終了しました。

そのデジタル放送が始まる直前ですから、多分 2003年ぐらいだったと思うのですが、当時僕は営業局におり、東阪名の系列3局の営業マンが集まる地デジ化関連の会議に出席しました。

僕はもとより新しもの好きなので、デジタル化はテレビの新展開の大きなチャンスだと考えていました。

それでその席で僕が、何の空気も読めずに「いろいろ新しいことをしましょうよ」と提案したところ、キー局の某氏に鬼のような形相で睨まれて、結局全部否定されてしまいました。

彼は明確に理由を述べませんでしたが、「今のままでうまく行っているんだから、妙なことをやって既存スポンサーを刺激するな」ということだったと思います。彼らはスポンサーに対して、「地デジ化になっても何も変わりませんので今まで同様にご愛顧を」と言って時代の変化を切り抜けようとしていたのだと思います。

つまり、テレビのセールスはその当時まだまだ非常にうまく行っていたということです。そこであぐらをかいてしまったのですね。

「2チャンネル放送を別売りしよう」「1セグやデータ放送を使って新しいコンテンツのセールスをしよう」などと僕が言うと、「スポンサーに『ウチは番組を買っているのではない。6MHzの帯域を買っているんだ』と言われたらどうするんですか?」と言われたのもよく憶えています。

6MHz とは?

これはちょっと一般の方には解りにくいかもしれないので少し解説すると、テレビ局はそれぞれ電波の特定の周波数を国からあてがわれてそこで放送をしています。何ヘルツから何ヘルツまでは A局、何ヘルツから何ヘルツまでは B局と言った具合です。

で、その各局が使用している周波数の幅が6メガヘルツなのです。アナログ時代は帯域全部を単一の放送にあてていましたが、デジタルになるとそれを分割できるようになりました。その幅の 13分の1 を使って携帯や移動体向けに低解像度のサイマル放送を始めたのが1セグです。

そして残りの 13分の12 をフルに使ってHD(所謂ハイビジョン)放送をしても良いし、それを半分に割って従来のアナログ放送並みの画質(SD)×2チャンネルの放送をすることもできるようになりました。

これを使えば、例えばキー局が東京で横浜・巨人戦を放送していて、同じ枠で関西地区では阪神・中日戦を放送していたような場合、巨人戦が早く終わって 21時からはレギュラーのネット番組が始まるときに、関西ではAチャンネルではレギュラーのドラマ、Bチャンネルでは阪神戦の続きみたいな編成ができると、随分希望を持ったのです。

しかし、これも実現しませんでした。Bチャンネルを編成されると、それを観た人の分だけ Aチャンネルの視聴率が減るのではないか、そうすると Aチャンネルのドラマの提供スポンサーが怒るのではないか、というようなことを勝手に考えてそこから動こうとしなかったのです。

もしもそんなケースで視聴率が下がったりすると、提供社だけではなく Aチャンネルのドラマのお偉いプロデューサーや大御所の脚本家センセイが怒り出すのではないか、たとえ視聴率が下がらなくても画質が HD でなくなることを許してくれないのではないか、みたいな心配もありました。

1セグで新しい商売を始めようという発想も同じような理由で却下されました。

そして、そのときに言われたのが、スポンサーから「特定の番組ではなくて 6MHz の帯域全部に対して提供料を払っている。そのうちの一部で他の商売をするとはけしからん」と言われたらどうするんですか?という理屈でした。

そんなこと言いますか? と言うか、帯域が 6MHz だなんてこと、スポンサーは知らないでしょう?

データ放送についても、dボタンを押してデータを表示すると「俺の画面が小さくなる」と怒ったプロデューサーがいたとかいなかったとか…。なんだか今思い出しても情けなくなります。

でも、ありがたいことに(笑)、どこの会社にも暴走するタイプの社員はいるもので、そういう人たちのおかげもあって、あくまで「実験」という名目で、僕らはいろいろな新しいことをいくつかやってみることはできました。

しかし、それは単発的なトライアルに過ぎず、新しいサービスとして視聴者に定着するわけでもなく、局として新しい収入源を確保するにも至りませんでした。

そんな時代がしばらく続きました。

あくまで「連携」の時代

キー局との確執だけではなく、社内においてもやはり新しいことに否定的な守旧派が少なからずいて、新しもの好きの僕らは結構白い眼で見られたりしていたのも事実です。

僕が後に編成部に、そしてインターネット関連部署に異動してからも、ネットと繋がっていろんなことをしようとするたびに、会社の上層部からは「『テレビとインターネットの融合』と言うな。『テレビとインターネットの連携』と言え」と言われたのもよく憶えています。

これはライブドアや楽天がキー局を買収しようとしたことの余波なんですよね。あの一連の事件があったために、業界内に「インターネットは敵だ!」という感覚の人が増えてしまったのはとても不幸なことでした。

もちろんキー局や会社の上層部が全員後ろ向きの人たちだったわけではありません。それは確かです。

でも、ともかくこの地デジ化の最初の何年間かに、せっかくデジタルになったにもかかわらず、テレビはデジタルのデバイスに乗り遅れてしまいました。そのことがいまだに尾を引いているのは間違いないと僕は感じています。

プレゼントキャストから TVer へ

プレゼントキャスト社の設立も遅きに失したと思います。プレゼントキャストは在京民放5社と電通をはじめとする主要広告会社4社の共同出資で 2006年に設立された会社です。

彼らは当初「テレビ局のホームページのポータル・サイトになる」と言っていましたが、後発の憂き目で、「逆にテレビ局の HP がプレゼントキャストの HP “ドガッチ”のポータルになっている」と僕らはよく言ったものです。

あの当時の電通のパワーがあれば、日本全国の放送局をまとめて、統合されたデジタル施策を打ち出すことができるのではないかと僕は考えていました。

電通の関係者や電通出身のプレゼントキャスト上層部にもにもそういう話をした記憶がありますが、如何せんあの時代、電通にその気があったにせよなかったにせよ、バラバラなキー局をひとつにまとめることはできなかったのかもしれません。

そのプレゼントキャストが何度かの改編を経て、今は株式会社 TVer になっています。紆余曲折を経て、漸くデジタル放送がデジタル・デバイス上に広がることができたのです。遅かったとは言え、とにかくスタートラインに立てたというのが僕の認識です。

デジタル化とは本来、単にアナログ地上波の本放送がデジタルに変わることではなく、それによっていろいろなデジタル・デバイスと繋がって広がることであったのではないかと僕は思っています(そして僕は当時からこの「繋がって広がる」という表現をことあるごとに社内で使ってきました)。

最初に繋がることに失敗したのは本当に痛恨だったと思います。でも、ここからは広がって行く段階です。どんどん広がって行く段階です。

かなりのスピードで広がって行かないとこの苦境から抜け出せないのではないかと少し心配もしながらではありますが、その広がりを期待を持って見守っています。今度こそ、自分たちの都合や思い込みではなく、ユーザの視点で広げて行ってほしいと切に願いながら。

◇ ◇ ◇ ◇ ◇

以前こんな記事も書いていました(このときはまだかろうじて在職中でした)。


この記事を読んでサポートしてあげても良いなと思ってくださった奇特な皆さん。ありがとうございます。銭が取れるような文章でもないのでお気持ちだけで結構です。♡ やシェアをしていただけるだけで充分です。なお、非会員の方でも ♡ は押せますので、よろしくお願いします(笑)