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映画評を書く時に何故カメラワークに触れないのですか?

こんなタイトルにするとなんか挑発的かつ高圧的で我ながら嫌な感じ(笑)なんですが、まあそのほうが読んでくれるかなと思ってそうしました。お許しください。

でも、僕が言いたいのは「映画について書く時にカメラワークに触れないなんて失格だ」みたいな偉そうなことではなくて、「もし映画を観るときに今そういうことに目が行っていないのであれば、その辺りに注目すると映画がもっともっと面白くなると思いますよ」ということです。

僕はもう何年も前から、自分が観た映画の評を自分のブログなどに書いており、他の人が書かれた映画評や感想などもよく目にするのですが、そんなときに、ストーリーや台詞や役者の演技などには皆さん触れているのに、カメラワークに触れている文章がとても少ないことが不思議なのです。

テレビも映画もアニメも、いずれもある種の映像芸術ですから、映像が最重要ポイントであることは言うまでもないと思います。で、映像について何か書くとなると必然的にカメラワークに触れざるを得ないんじゃないかなと思うのです。

難しいことではないと思います

そんなことを言うと、「お前は何十年もテレビ局に勤めていたからそんなことが言えるけど、我々素人はカメラワークみたいな難しいことは分からない」みたいなことを言う人がいますが、いやいや、僕だって素人です。

僕が会社で経験したのは、営業、編成、インターネット関連、経営戦略の4部署だけですから、番組制作経験ゼロです。撮影のことなんか何も知りません。

でも、素人であっても映像を見たら何かしら思うわけですよ。多分、皆さんもそうだと思います。

これが照明とか録音について何か指摘せよと言われると、とてもじゃないけれど素人には無理です。でも、映像だったら例えば、

あそこで急に役者の表情がドアップになったのがめちゃくちゃ印象に残ってる。

とか、

背景に映っていた山や空がめちゃくちゃきれいだったなあ。あれは登場人物の心情ともマッチしてた気がする。

とか、

役者を横から映してたのに、カメラが急に動いたら真上からの映像になってびっくりした。

とか、まあ、見てりゃそれなりに気づいたり驚いたり感心したりすることってあるじゃないですか。で、一旦いろんなことに気づき始めるとそれなりに注意して観るようになって、そうなると監督やカメラマンが多分いろんなことを考えてこんな風にやったんだな、みたいなことを思うわけです。

アニメにもカメラワークはあります

アニメでも同じだと思うのです。

最近観たアニメの中では『BLUE GIANT』が出色の出来だったなあと思います。良かったですよね? 僕の周りでもみんな褒めてるんですが、何故か音楽やストーリーのこと書いているおじさんばかりで、絵柄に触れている人があまりいないのです。

でも、あのサックスを吹いている怒涛のシーンをほとんど真下から見上げる角度で描いていたり、あるいはそういう静止画的なアングルにとどまらず、そこからカメラがギューンと縦横無尽に動いて、とんでもなく動的な画になっていたりします。

そう、最近のアニメは人間の目で見た画ではなくて、画面の外側のどこかにカメラがあるという前提で描いていますから、人間の目では見られないような角度とスピードで画が動きます。

『呪術廻戦』なんかだと、人物が高速移動するのとは反対方向に背景が高速で流れたりしているので、人物が超高速移動しているように見えるんですよね。

そういうことに気がついてくると、めっちゃ楽しめると思いませんか?

自分勝手な解釈で構わないと思います

「ここのカメラアングルはきっとこんな効果を狙ったんだろう」と思っても、それはひょっとしたら僕の勘違いだったり深読みしすぎだったりすることもあるでしょう。実は監督もカメラマンも誰一人そんなこと考えてなかった、みたいな(笑)

でも、それで良いと思うのです。それを映画感想文や映画評に書けば良いと思うのです。それがあなたの映画の見方であり、あなたの感性なのだから。

僕は中学時代から自分の観た映画のメモを取り始めましたが、当時の自分の文章を読み返すと、やっぱり最初はカメラワークのことになんか全然触れていませんでした。それが何年か映画を観るうちにいろんなことに気づいたり感じたりするようになったのです。

例えば役者Aと役者Bが会話をしているときに、AとBを2ショットで1つの画面に収めて見せる場合と、喋っている役者にその都度切り返しながら1ショットの連続で見せるのとでは印象が違ってくるはずです。

あるいはBの斜め後ろから撮って、Bの肩越しにAの表情は常に見えるけれどBはずっと後ろ姿、なんて撮り方もあります。これはどういう意図なんだろう?と考えたりしませんか?

あるいは長回し(=ワンシーン・ワンカット)などという撮り方もあります。ひとつのシーンをカメラを回しっ放しにしたまま、役者に長い芝居をさせて一気に撮ってしまう方法ですね。これは我々が日常的に物を観るときの見え方なので、現実に観客がそのシーンを目の当たりにしているような効果があります。

役者さんのほうも細切れで撮るよりも緊張感が途切れずに演技ができますが、その分長い台詞と動きを完璧に憶えて、ミスなく演じり切る必要があるので、役者さんにとっては負担の大きい、逆に言うと鍛えられる撮り方であるとも言えます。

そういうことに目が行くようになると、あ、この監督さんは結構長回しが好きで多用しているんだなというようなことにも気がつきます。

同じ長回しでもカメラを固定して役者にじっくり芝居をさせる場合と、役者もカメラも動き回っていて、Bが画面から消えた(フレームアウト)ら横からAが入ってきて(フレームイン)、かと思ったらカメラが途切れずに動いて、別のところにいたCを捉える、みたいな完璧にデザインされた動きの画作りの場合もあります。

長回しと対照的に、細かくカットを切り替えるのが好きな監督さんもいます。テレビのCMなんかだと、15秒の間に 10カット以上が入っていることは決して珍しいことではありません。スピード感のある、ポップな映像になります。

AとBの会話を切り返して撮るときに、Aのアップからポンッとカットを変えてBを撮るのと、Aを撮っていたカメラがそのままグルっと向きを変えてBをアップで捉え直すのとではこれまた印象が違います。

撮り方によって映像のテンポが変わってくる気がするんですよね。

何を感じるかがその人の映画感性だと思います

「そんなことどうでも良いじゃないか」と言う人もいるでしょう。はい、どうでも良いと思う人にはどうでも良いのです。これは投げやりに言っているのでも皮肉を言っているのでもありません。

ただ、そこに何かを感じた時、それがあなたの映像を見る感性なんだと思うのです。感性は人それぞれなところが面白く、だからこそそういうことを映画評や感想文に書くと面白いと僕は思うのです。

結構クライマックス的な場面で、普通はアップで役者の表情を狙うのに、わざと引いた画で人物を小さく映し、声は分かるけれど表情はあまりよく見えないような画作りをする監督さんもいます。僕が大好きな廣木隆一監督なんかはそういうことをよくやります。

僕はそういうのを見ると、背景となっている自然の大きさと言うよりも、むしろ人間存在の矮小さを感じてしまい、なんか感慨深くなるんですよね。いや、誰もそんなことは感じないかもしれないし、監督自身も全くそんなことは考えていないかもしれません。でも、これが僕の感性なんです。

繰り返しますが、難しいことじゃないと思うんです。全シーンを網羅しなければならないものでもないと思います。映像を見て、その映像のどこかに何かを感じたという、ただそれだけのことです。

歌だって詞と曲を一緒に聴いているじゃないですか

あちこちに気を配りながら観るなんてまっぴらごめんという人もいるでしょう。でも、歌を聴くときだっていっぺんにいろんなものを聴いているじゃないですか。

映画やアニメを観て、その画作りに触れないのは、まるで歌を褒めるときに歌詞のことばかり書いて曲に全く触れないようなものじゃないかなと僕は思うのです。

「そんなに曲に気を取られていたら歌詞が頭に入ってこない」とか、あるいは逆に、「歌詞に集中してたら曲が分からなくなる」とか、そんなこと言う人いないでしょ? 両方一緒に聴いてるわけですから。

せっかく歌詞と曲があるんだから(それ以外にもまだ要素はありますが)、両方に注意を向けると楽しいんじゃないでしょうか?

何でもそうだと思うのですが、いろんなことに気づき始めたら、そこから知識が深まって行き、どんどん面白さが増して行くってことはあるし、それは楽しい経験だと僕は思っています。

どうでしょう? あなたもカメラワークにちょっとだけ注意を向けて、気づいたこと、思ったこと、感じたことを書いてみませんか?

実は前にも同じようなことを書いています。この記事と完全に被っていますので、今回この記事をお読みいただいた方はわざわざリンクをつついて合わせてお読みいただく必要は全くないと思いますが、一応リンクを貼っておきます。


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