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VOICE創作日誌 本と新構成のアイデア

以前買っていた、越智雄磨『コンテンポラリー・ダンスの現在 ノン・ダンス以降の地平』(国書刊行会 刊)を拾い読み。

近年に至るほど個々のパフォーマーの個性や記憶、生そのものをより前面に出す傾向が次第に強まっているように思われる。

越智雄磨『コンテンポラリー・ダンスの現在 ノン・ダンス以降の地平』(国書刊行会 刊)
p.195

観客が作品に関わる余白や権限を相対的に拡張することで、観客の主体性や創造性を解放し、観客との協業や共存を志向する「共存のためのコレオグラフィ」

越智雄磨『コンテンポラリー・ダンスの現在 ノン・ダンス以降の地平』(国書刊行会 刊)p.195〜196

引用した言葉がとくに印象的だった。
前者を読んで、先日拝見した神戸国内ダンス留学の成果発表『6つのソロダンス』で特に興味深かった作品が、冒頭ダンサーの個人情報(と思しき名前や電話番号、星座など)をシャツに書いては脱いで、敷かれたビニールシートに投げつけていた(ファシャッッッ……と鳴ってゆっくりと波が立っていた)

そして引用した文章の後者。舞台での「余白」というのはどうやって作れば良いのか?他の章も読まないと先人がどのようなことをしていたのか分からない(いや読めよ、ハイ読みます)のだが、上に書いた「ダンサーが個人情報を開示する」というのは、その人自身を何も明かさない「ダンサー(いち出演者)」というだけの状態で観客の前に現れるより、「隙」を見せるようなものかもしれない(個人情報を何も知らさない「ダンサー」の状態だと、少なくともダンサーの「日常」に付け入る隙がない……というか)。

昨日書いていた「観客のほうを見ながら踊る」というのは、確かに振り付けが言語的に見えたが、あまり余白は無いように感じた。見てもらっている、事前に準備しておいた振り付けを、しっかりと手渡そうとする、というか。それは振り付けの「テンポ」も関係している気がする。かなり早く、動きのキレが良かった。

自分の来歴や日常の考えを喋りながら、ゆっくりとした振り付け、というのは、どうだろうか……?ゆっくりとした振り付けとするなら、おそらく振り付けとして使える「声を発するときの身振り手振り」は、一種類、ないし二種類……?その「手の向き」や「自分の胴体(胸)との位置関係」などをゆっくりと慎重に変容させていくのが良いかもしれない。

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