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20.10.30【週末の立ち読み #4】2020年のノーベル物理学賞受賞者の考える「心と宇宙」の問題 〜ロジャー・ペンローズ『皇帝の新しい心』(みすず書房)〜

 2020年10月6日、ノーベル物理学賞の受賞者の中に、その男はいた。
 ロジャー・ペンローズ。御年89歳。
 数理物理学者であり、その専門分野のみならず、さまざまな理論やデザインに影響を与えたとさえ、言われている。

 映画マニアの間では、クリストファー・ノーラン監督の『インセプション』、その中にもペンローズの階段と呼ばれるペンローズ発案のデザインが巧妙にトリックとして用いられる。
 実際ペンローズはエッシャーにアイディアを提供した人間でもある。こんなユニークな人は他に二人といない。
 また、『インターステラー』で描写されたブラックホール──まさにこの研究によってノーベル物理学賞を受賞したわけだが──もペンローズの実績と結構深いつながりがある。

 そんなペンローズが、心身問題──AIは人の心を持つのか? という問題に言及しているシリーズがある。
 本書『皇帝の新しい心』(みすず書房)とは、その記念すべき第1冊目だ。このあとに『心の影』(みすず書房)、『心は量子で語れるか?』(講談社ブルーバックス)と続いていく。

 この書物、しかし奇妙な本なのだ。なにぶん、副題が『コンピュータ・心・物理法則』とある。まるで関連性がありそうでなさそうな三単語。しかし、実際には興味深い示唆がある。

 本書の背景には1980年代のAI研究ブームがあった。現代でもAlphaGoやSiriのおかげでいよいよ現実のものかと思われてはいたものの、当時も同じように思われていたらしい。
 ペンローズはそんな時代に提出された「強いAI」という概念について、これでもかという具合に論破している。補足だがこの本の詩的にも見えるタイトルは、いわゆる「裸の王様」と同じ意味合いを持っており、「AIが人間の心を理解するなんて嘘っぱちだ!」というアイロニーも含んでいる。

 実際、この本は非常に奥ゆかしいのだが、非常にわかりにくい。あえてそうなるように意図して書かれているようにも思えるし、そうでもないようにも見える。だから、本書に心身問題の答えを見出すなど夢のまた夢だ。「皇帝」の心なんてすぐ心変わりする(新しくなる)んだから、無闇に解決するなんて豪語しないほうがいい、とすら言っているようだ。

 では、そこまで言い切ったペンローズはどうするかを話すかというと、これがもう滔々と物理学の話をし始めるのである。

 たぶん,われわれの心は,古典的物理構造の「対象」なるものが遂行する,何らかのアルゴリズムの特徴にすぎないというよりも,われわれの住んでいる世界を現実に支配している物理法則のある奇妙な驚くべき特徴に由来する性質であろう.
 ──ロジャー・ペンローズ『皇帝の新しい心』林一訳 p257
 ※太字は原文だと傍点

 少し、というか、だいぶ補足をしなければ、きっと読者はついていけないだろう。

 まず、当時考えられていた「強いAI」について。

 簡単に言ってしまうと、「人間の心は複雑なコンピュータなのだから、いつかアルゴリズムに置き換えることが可能だ」と考える派閥である。
 もっと突き詰めて言い換えると、「思考を始めとする人間の心の活動は、全て計算可能なものだ」と断言してしまう立場でもある。

 これは、人間の心理状態や無意識的行動が、実は世間一般で自認しているよりもホルモンや化学物質の影響を受けていることを踏まえて考えると、ある意味では説得力持つように見える。
 おまけに、1950年代以来のサイバネティクスの台頭で、実は人間の神経系を始めとする身体も、電気信号で動かしている(と大雑把に言ってしまうことにする)というアイディアも相まって、そういう風に考えられてもいた。ラ・メトリの『人間機械論』の世界である。

 無論、同じ機械と言えども、1980年台のコンピュータはそれまでの機械という乱暴なくくりとは比較にならないぐらい洗練されている(とは言っても、インターネットもなく、スマートフォンですらない時代から見れば幼稚にすら見えてしまうだろう)。
 当時のコンピュータには、ソフトウェアの概念があった。単に歯車じかけだったり蒸気機関だったりではなく、このコンピュータは純粋にアルゴリズム≒数学によって動いていたのだ。

 だから、強いAIが主張することは、(当時の)数学の計算可能で証明可能な要素で、人間の心の仕組みを表現できるだろうと考えることだったのだ。

 これが正しいかどうかは素人の僕にはわからない。しかし、僕たちの心のどこかには計算可能なものがあり、逆に計算できない部分もある。
 この計算できないものを崇拝するほどの意識の神秘主義を掲げるつもりは毛頭ないものの、ペンローズも似たようなことを言っている。主にp463-489にかけて無意識的な行動はアルゴリズム的かもしれないが、意識的活動とは、非アルゴリズム的なものではないか、と示唆しているのだ。

 しかし、これはまだ、先を急ぎすぎている。

 問題は、この「計算可能なもの」=アルゴリズム的なものの記述が万能なのか、という部分。ペンローズは本書の序盤で長々とアルゴリズムやマンデルブロ集合、ヒルベルトの公理体系とゲーデルの不完全性定理など、数学の話をこんこんと進めるが、それはこの部分の検証に当たる。

 そのあと、ペンローズが提出するのは、数学が記述しているものは、あくまで現実の写しでしかない、ということ。
 ペンローズはこれをプラトン的世界、などと表現しているが、要するに完璧な三角形や直線は僕たちの意識的活動を通じてしか存在しない、ということだ

 だとすると、現実界=物理的存在としての三角形や直線は、どこかで妥協しているだけで、僕たちの意識の方が、これを三角形や直線だと認識(カテゴライズ)している仕掛けになっているはずなのだ。
 もっと言えば、僕たちの意識は、幾何学的な図形をそうだと「わかる」ように、部屋の間取りや空き地の広がりを──空間を実感しているし、そこに流れる風の向かう先や移りゆくあらゆるもの──時間を認識している

 ところで、時間や空間を数学によって記述する学問が、数理物理学である。ニュートンが『プリンキピア』で数学的に物理学の記述をしたことで古典物理学の系譜が繋がっていくのだが、もし時間と空間を認識するのが人間の心が持つ意識の働きならば、物理学もまた同様に時間と空間を認識する以上、心の物理学とでもいうべきものが解明できないうちに、人間の意識は解明できないのではないか? とそういうわけなのだ。

 そう、ようやく本題に戻ってくるわけだが、だからこその引用部分になるわけなのである。

 そして、ペンローズの関心は、現代物理学の未解決領域、量子重力論に進んでいく。
 ここで、アインシュタインの一般相対性理論にも記載される重力が、ブラックホールを含む時間と空間の歪みに関係することにも言及し、意識の活動にもそれとなく関わりがあることを暗示させる。これをミクロに突き詰めると量子力学の観測問題にもなるし、マクロに突き詰めると宇宙論になっていく。

 それからペンローズはいろんなものに手を伸ばしていくのだが、その多くはよく知られた実験(リベットの実験)だったり、何とも言えない検証できない話題だったりするので、全部知りたいという人は、本書を手に取り、根気強く読んでみることをおすすめする。

 ここから先は、恒例になりつつある、僕個人の感想だ。

 ペンローズの階段や、ペンローズタイル、あるいはペンローズの三角棒を検索し、画像を見るとわかるのだが、ペンローズは人の持つ認識の曖昧さに関して並べてならぬ関心と観察を行っている。
 この人の幾何学的センスは抜群で、エッシャーを始めとする美術の世界にも影響を与える一方、著書のイラストも自作という多才っぷりだ。

 しかし、僕自身はペンローズの意識の理論は正直そこまで面白いとは思わない。続編の『心の影』も、『心は量子で語れるか』も、竹内薫と茂木健一郎が翻訳・解説した『ペンローズの量子脳理論』も大学時代に既読だが、今となっては古いSFの設定のように感じてしまう。
 むしろ、『宇宙の始まりと終わりはなぜ同じなのか』(新潮社)で扱われる共形循環宇宙理論(共形サイクリック宇宙理論とも)の方が断然に面白い。ケプラーの宇宙論を読んでいるような楽しさなのだ。いや、こちらが本職なのだから当たり前なのである。

 それでも、なおペンローズは『皇帝の新しい心』で知られるだろうし、不思議なことに本書は今もなお発見に満ちた書物でもある。
 というのも、AIが人間を超越する、という風説が流れるたびに、ペンローズの看破が、小さな子供の指摘のように鋭く突き刺さるからである。

 その指摘自体は、最初に挙げた通りなので繰り返さない。より重要なのは、精神現象も自然法則の一種だ、というペンローズの強い思想である。これを無くしては、ペンローズの書籍を堪能することもましてや遊ぶこともできない。

 少し話がずれるかもしれないが、人間は自らの思考を実現できるように作られている存在である。それは何かとても高尚なことではなく、椅子に腰掛けた人間が「立とう」と思った時、全身の筋肉を動かして身体を持ち上げる、何気ない動作に隠された見事な仕組みのことを指している。
 かのベンジャミン・リベットの実験は、人間の意識が何かを感覚するよりも0.5秒早く身体は感覚情報を受信し、場合によっては反応すらしていることを実証している(本書及びリベット自身による『マインドタイム 脳と意識の時間』を参照)。自己意識そのものは本能や必然性から少し距離を置いた場所にあるということだ。
 ということは、僕たちの意識とは全くもって非効率的で、不完全で、それでいて出鱈目で間違いも犯しやすいものなのだ

 そんな意識が、しかし一方で、ホルモンや化学物質から幸せを感じたり、自らに命令の電気信号を送信したりする。この事実は、精神の営為が物理的な法則に置き換え可能であることのほのめかしでもあるはずなのだ。

 だから、意識が数式で表せるというわけではない。むしろ逆で、数式以外のメカニズムが、数式で表せていない科学の未知の展望につながるかもしれない、という期待のようなものがあると、僕は思っている。

 2019年にベストセラーとなった新井紀子『AI vs 教科書が読めない子どもたち』(東洋経済)で、AIはまだ読解力を──意味を理解する能力を持たない、と記述がある。
 これは、「中国語の部屋」という思考実験とよく似ている。
 中国語の文章を外の見えない部屋に投函する。部屋の中には中国語の読めない人間がいて、あるマニュアルに沿って適切な返事のカードを返すように仕組みが作られている。さて、部屋の中の人間は中国語を理解したと言えるだろうか?

 ペンローズはきちんとこの「中国語の部屋」のエピソードを挿入している。この部屋がAIのメタファーだとして、ではAIと人間の根本的な差異が何なのかと言えば、この世界について理解できるかどうか、という点に尽きるのではないだろうか。
 そして世界を理解するとは、数学という人間の思考だけが産み出した、世界の最も理想的な写し絵でそれを描き取れるかどうか、なのではないだろうか。少なくとも、ペンローズにとっては。

■以下、書誌情報

読みやすさ:低い(ヒント:数式や未知の方程式は飛ばして読め)
面白さ:高(ただし、真に受けないで読む訓練が要る)
入手しやすさ:割と高め(ペンローズ受賞に伴って重版したとのこと)

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