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23.07.18 「自分」に成り変わる言葉たち
こんばんは。八雲 辰毘古です。
先週末やや喉風邪をこしらえてしまったらしく、喋るのが大変です。別に表現活動で声出しをする機会はないんですが……
今回は自己紹介をめぐる、ある気付きと考えを提供します。
自己紹介そのものはしません。悪しからず。
導入.紹介するほどの「自己」とはなんなのか
自己紹介は苦手である。
なにせ、何を言えばいいのかわからない。好きなもの? 趣味? そんなことを言って何になるんだろう。
ぼくはぼくだ。しかしそう言ってみたところで、結局説明にも紹介にもなってない。だから人はもっとわかりやすい言葉を求める。でも、わかりやすい自己ってなんなんだろう?
自己紹介の様式なんて、検索してみたところでわんさか出てくるわけだから、ぼくはいまさら自己紹介がこういうものだと定義はしない。むしろ、自己紹介の形を借りて他者に受け付けられるさまざまなイメージについて、今回は考えてみようと思った。
言うなれば、《自己》に代わって《自己》を装う言葉たちである。
本論.《自分》を肩代わりしてくれる言葉のこと
「私とは〜である」という文法
自己紹介──その言葉のあまりにも簡単でいながら、そのくせとても気難しい側面を持った振る舞いをぼくはいまだ知らない。
例えばぼくがサッカーを好きだったとする。すると次に訊かれるのは「どのサッカー選手のファンですか?」だろう。
ぼくが別にメッシでもロナウジーニョでもなんでもいいけれども、選手の名を応えると、今度は「なんでその選手が好きなんですか?」と来る。訊き手が気にしてることはなんだろう。サッカーへの趣味の良さか、それとも、こだわりや熱意のあり方か。
自己紹介は、その一言で性格を示すこともある。「人前に立つのが苦手で……うまく話せないんです」。自信なさげな態度がその言葉を裏打ちし、「ああこの人は内気なのだな」と見る人に結論付けをさせる。
一方で、「あなた真面目なんですねえ!」と言われた日にはその人との会話は終わりだ。真面目であることは仮面を被ることである。自己紹介の仕方で「ああこの人は真面目なんだな」と理解させることは、「これ以上聞いても面白いものは何も出てこないな」と思われることに等しい。人は他者に綻びや偏りを探す。そこに共通項を見つけると、ふしぎと仲間意識を感じ取るらしい。
このような、《自己》そのものを紹介する作法には、たくさんのレッテル貼りが行われる。自分が貼るラベルと、他者が貼るレッテルが、ベタベタと重なり合って爪で引っ掻きたくなるほどの分厚い層をなしていく。
SNSを見てみよう。たくさんの自己紹介で溢れていることにあらためて驚かざるを得ない。取扱説明書のように丁寧に「ああしてほしい」、「こうしてほしい」と書くものもあれば、座右の銘のようなものがドンと置いてあって、何も説明する気もない強面の看板だってある。これらは結局のところ、広義の自己紹介である。と同時に、多彩な自己表現でもある。
《自己》なるものは、それ自体では決して誰の目にも触れない。
だから、ぼくたちは《自己》をさまざまに装飾して、言葉で塗ったくって紹介する。自己紹介とは、つまるところ「私はどこかに所属しています」と宣言し、身元を明らかにするための手続きに過ぎないのだ。
さて、その作法の一例を紹介しよう。
①旅人としての自分[夢や目標]
まだ何者でもない《自分》──《自分》が自分であることを知られるためには、まず《自分》が何者かを説明できなければならない。
きっと、自己紹介を気難しく考えた人はみなそう考えたと思うのだ。
しかし《自分》が何者かなんて、誰にわかったものだろうか。
家族のことや、身体的特徴、やってるスポーツや愛読書など。これらは《自分》に関連づいているが、自分のことを語りはしない。
もちろん似たような家族構成、同じスポーツのプレイヤー、愛読書を持つことはひとつ友達を見つけるキーフレーズになるかもしれない。身体的特徴は、誰かが《自分》を見つけるための重要なきっかけになる。しかし、それらをひとつひとつ指差して「自分です」というのは気恥ずかしいし、オリジナルな感じはしない。
そこで、《自分》を特徴づけようとする人間は「夢」を語る。
有名漫画『ONE PIECE』に登場する愉快な仲間たちには、ひとりひとり叶えたい夢がある。読者のスタンスがどうあるにせよ、『ONE PIECE』のストーリーは仲間たちの「夢」──特に主人公ルフィの「海賊王になる」という夢が本当に叶うのかに焦点が置かれている。そして、そのことによって数ある仲間たちが唯一無二の存在へとなっていく。
ただ、現実に生きるぼくたちは、下手に夢を語ると「ワナビー」扱いされる。
何者でもなければ、何者かになろうとする《自分》を見せればいい。その夢が叶うかどうかは定かではないものの、そこに向かって熱心に進む《自分》は、何もしない人よりは魅力的に見えるだろう。
ただし、夢は、結局のところ夢である。
夢を語ることで《自分》を見せることは、いずれそこに変化したい、という虚像と隣り合わせにあることを忘れないでほしい。そんなあなたはまだ旅人なのだ。
②「持っている」自分[モノ・ステータス]
ぼくが小学生の頃、クラスメイトに最新のゲーム機がある家庭はみんなの憧れの的だった。
まだNintendo64やPlayStationが幅を利かせていたころである。ゲーム機はおろかゲームソフトもおいそれとは手が出せない時分、親の財力なのか好意なのか、たまたま家庭にゲームがあるとみなこぞって膝を寄せた。
そして言うのだ。「今度遊びに行ってもいい?」こうしてクラスの人気者は出来上がる。
大人になってみると、いまやひとり一台はスマートフォンを持ち、映画や音楽もサブスクで視聴する時代、物を持つことはかえって身の回りを整頓できない貧しさの象徴となりかけている。
しかし物の持っている力は強い。高価なスーツやブランド物のバッグ、名の知られた腕時計はそれがあることでひとつの「格」を見せる。物を持っていることは、そのままその人の在り方を指し示す。ただ、重要な持ち物のリストが時代によって移り変わるだけなのだ。
もちろんエルメスのバッグはあなたその人の個性を引き立てはしない。しかし、「エルメスが似合うあなた」は、立派なアイデンティティになる。まさか自己紹介でブランド物のバッグをひけらかす人なんていないと思うけれども、おそらく他人はあなたのことを、どんな物持ちでどんな地位を持っているかで判断しようとしてくる。
社会人の自己紹介とは、ある意味では「肩書き」のラベリング合戦である。ステータス。ある組織の中でどんな位置付けにあるのかは、聞く人にとっては不愉快かもしれないが、れっきとしたアイデンティティを示す。
それは努力の結晶かもしれないし、たまたま手に入ったポストかもわからない。しかし、そのステータスと自分自身の関係性が、そのまま自分という人間の品格につながる。
肩書き──つまりステータスは、あなたではない。もちろんあなたが所有しているあらゆる物もお金も、あなた自身ではない。しかし、そうしたものを通じて、人はあなたという人を理解する。
③誰かにとっての自分[人間関係としての自分]
友達100人できるかな、なんて言っていたのは小学生の頃までだと思っていた。しかしいまとなってはフォロワー数万人の時代である。全世界に自分の言葉や思想、表現を届けようと思えばできてしまう昨今、《自分》は薄く引き延ばされたかのように拡散し続ける。
分人という考え方のように、誰かに面しているパーソナリティの数だけ《自分》がある、とそう言うのもいいだろう。
確かにネットで話すぼくと、友達と接するぼく、家族に対するぼくはそれぞれ別人のような振る舞いを見せる。職場でも人によって喜怒哀楽の度合いを変える。大袈裟にリアクションすることもあれば、気を抜いてだるい絡みをすることもある。
となると、自分から見て「気を許せる」とかその人に何を求めているかとか、あるいは、他人から見て自分が気楽なのかとか、いろんな要素が絡まってその人にとってのオリジナルな《自分》というのを探しても良いかもしれない。
例えば、恋人。
彼にとって、彼女にとって、唯一無二の愛憎の相手。
例えば、家族。
血のつながりは良くも悪くも他にはないアイデンティティを見せつける。
例えば、親友。
親友の代わりなんて、そうそういない。
自己紹介の世界からだいぶ遠ざかってしまったが、「ぼくはこういう人間だよ」と自分を開示したい欲求や気持ちというのは、突き詰めるだけ突き詰めると、ぼくは人間関係に尽きるように思える。つまり、《自分》がどういう人間なのかという不安は、誰かと心の結びつきを感じ取ることで初めて解消するものなのだ。
しかし、共依存という言葉があるように、例えば愛し合っているふたりは、どんなにその愛情が真実でも、決して互いの《自分》を守ってくれない。むしろ誰かにとって特別であろうとするあまり、《自分》を自分で殺してしまうかもしれない。
インターネットで表現活動をして、次第に壊れてしまう人にはこの傾向が強い。それは他者が求める《自分》と、自分がこう思ってる《自分》にずれが起きて、軋んだ歯車のようにいつか大崩壊へと陥るのを待つばかりなのだ。
自分は《自分》である。
何を当たり前なことを。しかしそれが何よりも難しい。
結局、他人あっての《自分》なのだから。
結論.透明で澄み切った、寂しい《自分》を考える
情報が錯綜する現代は、ある意味でその参加者全てが「自分探し」の道中にある。
たとえ「趣味でやってます(だから私をほっといてね)」とアプローチする人間ですら、他者の注目というものを拒絶する形で気にしてしまっている。他人なくして社会はない。しかし情報技術が発達して世界を覆い尽くしたとき、世間に溢れたのは何よりも〈うわさ〉であったことをぼくらは心の隅に留める必要がある。
その〈うわさ〉というのは、「誰かが別の誰かの話をする」という文法で成り立つ。つまりゴシップだ。しかし一般的にゴシップは有名人にしかない物だと思われていた。それはある意味で正しい。ただ決定的に違うのは、現代では誰でも有名人のふりができるということだ。
そんな時代に生きるということは、自分が《自分》のうわさに絶えず耳をそばだてる──そのことが処世術となってくるということだ。となれば、やはり《自分》をどうプロデュースするかが肝心になる。「自己紹介」はかくしてより一層気難しいテクニックとして洗練されていくのだ。
けれども《自分》を《自分》らしくしてくれるものには注意が必要である。結局のところ、どんなに華やかで美しく、実用的であってもそれは《自分》を装うものでしかないのだ。
いま、ここに生きている《自分》という現象は、そうした自分に成り変わる言葉や装飾を少しずつ剥がした先にある。ひたすら剥いてみるといい。残ったものは大したことがないかもしれないし、何も残らないかもしれない。
それでも、何者でもない《自分》、夾雑物を取り除いた、まっさらに澄み切った《自分》というものを見つけることができると、もう少しだけ気楽になるように思う。それは寂しい自己である。しかし雑念のない自由な自己である。
そうした境地が、むしろ現代では必要なのではないか。
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◎あらすじ
舞台は中高一貫校の男子校。女子が苦手という理由でそこに入学した星野正志少年は、親から強い圧を受けて厳しいとうわさの剣道部に入部してしまう。想像通りのハードそうな雰囲気に圧倒されつつも、その中で勝利する先輩たちの姿に憧れて、次第に自分もそうなれるかと努力するのだが……
敗者が語る青春小説、開幕。大事なのは勝つことだけとは限らない、たぶん。
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