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21.02.05 【週末の立ち読み・続 #2】古代から連綿と続く権力者のイメージ戦略 〜ホルスト・ブレーデカンプ『泳ぐ権力者 カール大帝と形象政治』原研二・訳(産業図書)を読む〜

 毛沢東はよく泳いだ。ムッソリーニも泳いだ。最近だとプーチンも極寒の沐浴を発表している。
 政治家が遊泳・沐浴のパフォーマンスを披露するのは、何も自分の体力をアピールしたいからだけではない。こういう風習は、ヨーロッパでもフリードリッヒ・バルバロッサやカール大帝、そしてアウグストゥスも実践していた。いわゆるこれは形象政治なのである。

(※本文は筆者:八雲 辰毘古の個人的理解に基づいたものです。学術的な正確さにおいては担保できかねる部分があり、かつ個人的な推測・妄想を交えた内容となっております。
 もし肝心の文面において、興味をお持ちいただけた場合、直接本書を購入または図書館で借りるなどして、直接ご確認いただくよう、お願い申し上げます)

導入部.身体をイメージ化する

 アビ・ヴァールブルクの『アトラス』に、写真と新聞の切り抜き、という組み合わせのパネル(79番と呼ばれる)がある。
 ここにはムッソリーニが法王の間に締結した政教条約の記事が、そしてその上に重なるように水泳選手の写真が貼ってある。ヴァールブルクは「これぞ我が肉体(hoc est corpus meum)」と題打っている。

(※ホルスト・ブレーデカンプ『泳ぐ権力者』p11より引用)

 これは単なる揶揄ではない。むしろ長い伝統に乗っ取って、統治者が筋肉モリモリの身体を見せつけることに対するある種の意味を示唆していた。

 統治者が壮健であること、運動が得意であることは、戦乱の時代であるならともかく、現代においては、実務上の意味をあまり持たないようにも思える。しかし、この振る舞いはムッソリーニだけではなく、毛沢東の揚子江の横断や、プーチンの水泳習慣にも広がる。
 彼らはなぜか身体の強健であることを誇示する。もちろんそれは統治者の力強く健康的なイメージを流布するための戦略、という側面も持っている。しかし、同時にある種の親近感をももたらすためにあるのではないか。

 本書は、泳ぐ権力者の話題を導入にして、ヨーロッパ史における偉人:カール大帝(シャルルマーニュ)の水泳のことを記述する。
 これを読むまでよく知らなかったのだけど、カール大帝は、今でいえば非常にスポーツ好きな帝王だったらしい。水泳だけに限らず、馬術、狩猟も好んだという風に、アインハルト(エインハルドゥス)の『カロルス大帝伝』では伝わっている。また温泉も好んだらしく、アーヘンの王の館には温浴プールまで設けてあったのだという。

 アインハルトに拠れば、カール大帝は100人の王族、家来を巻き込んで遊泳を行ったが、それに優勝するほどの泳ぎっぷりだった。
 これは、しかし明らかに対外アピールとしての身体誇示ではない。もちろんアインハルトの伝記に書かれた以上は、ある種の象徴的な意味をまとってはいるものの、それは「筋肉こそ力なり」とするような、いわゆる『コナン・ザ・グレート』的な表象とは多少異なっている。

 もっと飛躍して言ってしまえば、アーノルド・シュワルツネッガーやシルベスター・スタローン、『北斗の拳』や『ジョジョの奇妙な冒険』の第一部や第二部におけるようなムキムキの肉体こそが強さの表現であるような、そういうものではないということだ。
 もちろんカール大帝自身、身長が約195cmもある。肉も食う。しかし、小太りであるとも書かれ、肉体美を論うことはあまりない。そういうことを表現するようになったのは、ミケランジュロの時代からだ。

 では、カール大帝の実践した身体のイメージ戦略とは、なんだったのか。ここでは前半の40ページほどの内容を、ざっくりと要約してみよう。

要旨.カール大帝が泳ぐことの意味

 大きく四つある。一つには、もちろんのことだが、優越を示し、己が統治者としてナンバーワンであることを見せつけるためである。権力者の肉体誇示のもっとも表面的な層である。これはすでに書いてあることなので説明を省く。

 第二に、泳ぐという行為は、水という4大元素の一角を支配するイメージをもたらすことを挙げている。自然の根源であると同時に、溺死が発生し、魚たちの泳ぐ別世界としても──つまり、いわば動物が住む「森」という異界を自在に往還できるように、王が「泳ぐ」ということは自然との対等な関係性を意味付けるのだという。
 テクノロジーが発達しない時代、自然は理解不能の猛威でもあった。それと対等に渡り合い、死なずに戻ってくる体術及び狩猟の技術は、本人の「力強さ」=統治者としての格もそれとなくもたらした。思えば狩猟も水泳も、(漁るという意味では)生活の糧をもたらす術だった。その延長戦だろうか。特に河川の場合は「人間にはままならぬ流れを、その手で掻き分ける」という象徴的意味合いも帯びており、深みを増している。しかし、これでもまだ表面的な解釈に過ぎない。

 第三。興味深いことに、己を統治者の系譜に位置付ける目的があった。

 統治者が遊泳によって己のイメージを強くした例は、カール大帝が初めてではない。
 カエサルには、アレクサンドリアを陥落させた時、自分が泳げたことで命拾いをしたエピソードがある。その際、横泳ぎが達者だったから書類を濡らさずに済ませたなどという逸話があるが、当時の(ウェゲティウスに拠る)軍事論には、水泳も兵士教育の一環として強い意味を持っていた。スエトンによるアウグストゥスの伝記にも同様の記載がある。アウグストゥスは水練にも逞しかった。ゆえに伝記作家としてのアインハルトが、このイメージを借りたと、この本では書いている。 
 つまり、カール大帝は、泳ぐことをもって、自らを古代ローマの皇帝と同列にあることを、示唆したわけだ。これはローマの権威を継いだものとして実に歴史的な意味合いを帯び始める。

 そして最後にあるのは、これもまた意外に思われるかもしれないが、部下や家族に対して積極的な関係を構築することにあった。
 カール大帝は家族想いなのである。これが裏返って、彼亡き後のカロリング朝は相続問題に苦しむことになるのだが、少なくとも、カール大帝は水泳や温浴の行為に乗じて、一族・郎党みな同じ場に呼ぶことで関係・交流を持つように心がけていたように思える。
 要するに、水泳によって誰にも負けない統治能力を誇示すると同時に、実は部下や家族に対する限りない愛情義務も、カール大帝は課していたのである。少なくともアインハルトはそう解釈して、伝記を執筆した。読ませる相手はカール大帝の子孫たちである。そこには親子の服従義務と愛情義務の相関関係を仄めかす目的が見え隠れする。

 このことを指摘したあと、ブレーデカンプはこう締め括る。

 アインハルトがまず示そうと努めたのはカール大帝という人物であって、彼に向けられてきた救済史的な大げさな投影ではさらさらなかった。これは幸運に恵まれた支配体制が決して構造的にばかり理解さるべきではないという警告に結びつく。この体制はむしろ人物やグループ次第なのであり、つねにあらたに獲得すべく、いつでも危ない綱渡りだったのだ。権力のこうした根拠の持ち方は(中略)むしろ身体的、心理学的、社会学的要素こそ焦点であり、アインハルトのカール大帝描写も、身体言語の社会的可能性を利用することのできるスポーツマンであることを根拠として示したのだった。水泳と湯浴みには宗教政治的要素が具わっているばかりか、効果狙いの社会要因が共振するパフォーマンスの娯楽もあったのである。
 ──ホルスト・ブレーデカンプ『泳ぐ権力者』p45より
 ※太字は引用者に拠る

 よく、ビジネス系のインフルエンサーが、「良い生産性は良い構造・良い仕組みから生まれる」と──あるいは、その逆の内容を主張している。失敗は構造的な問題だ、ゆえに仕組みを考えることでこれを改善できるとする。
 これ自体は間違いではない。しかし、ブレーデカンプが示唆するように、制度検討、または地政学のような与えられた土壌を理解することだけでは、本質的な理解には辿り着けない。改めて人柄や、その人物の持つイメージが、どうあったのかも含めて、総合的な綱渡りであったことを、今一度思い出さねば、歴史は、体制の幸運は蘇ってはこないだろう。

 本書では、カール大帝時代に確立したという、髪の毛を短く切って整える習慣や、狩猟と動物保護地区の成立などをつぶさに追って、彼の形象政治の痕跡を追っていく。
 この手際のよさが、実に気持ちいい。ホルスト・ブレーデカンプの学問的テーマである、「像行為(ビルトアクト)」が、自在に行き来している。一個の象徴や記号が、単調なものとしてではなく、見るものと見せるものが同時に動くがごとき、流動性を見せてくれる。ブレーデカンプにあっては、何かをイメージする媒介は、それ自体が生きている。歴史や価値観とともに流れて移り変わるものだということを、描き出してくれるのだ。

本論.ブレーデカンプのイメージ学

 ここで、本書の作者:ホルスト・ブレーデカンプについて、簡単に説明する。英語版のWikipediaに拠ると、美術史家とある。古今東西の芸術・美術を比較・研究し、表現の様式や、当時の精神史、あるいは芸術家の哲学や世界観を浮き彫りにすることが多い仕事だ。
 ただ、上記でご覧いただいたように、ブレーデカンプの仕事は、単に美術に止まらない。カール大帝の「水泳」に関しては、歴史的文献やタペストリ、古代のコインなどの表象をたどったものがあるという点では、美術をモチーフにしているが、それ以上の示唆を伴う。

 例えば、『古代憧憬と機械信仰』(法政大学出版局)では、「驚異の部屋(ヴンダー・カンマー)」と呼ばれる、16〜18世紀に流行した自然物・人工物のコレクションルームの研究を通じて、近代の科学的・啓蒙的世界観へと続く流動的な過程を浮き彫りにする。そこには収集物としての「自然物」が古代の神々の石像を経由して、分度器や方位磁針、天球儀という世界模型の「人工物」へと辿り着き、機械人形へと進んでいくイメージの連続性を指摘している。ここに加えて、彼はフーコーとは異なる「知の考古学」を示唆するのである。

 フーコーの分析の基になっている近代初期の収集体系と分類体系は、無情のトポスへのネオバロック的な操作を支えることはできない。(中略)フーコーの分析の弱点は、視覚体験を言語が歴史的人類学的に埋め込まれた媒体として見るのではなく、たんに言語的な理解の前段階として捉えた点にある。
 ──ホルスト・ブレーデカンプ『古代憧憬と機械信仰』より引用

 この「視覚体験を(……)歴史的人類学的に埋め込まれた媒体として見る」ことを通じて、さまざまな表象を紐解くのが、彼の著書におけるユニークで、かつ有意義なものだと僕は思う。
 本書には書かれていないが、ブレーデカンプのこうした知的活動は、「イメージ学(Bildwissenschaft)」という新しい次元を伴って、こんにちも研究が進められている。この点については、坂本泰宏、田中純、竹峰義和によって編まれた論文集『イメージ学の現在』(東京大学出版会)に詳しい。

 僕はこちらから入ったから、「ビルトアクト Bildakt」という主概念を「像行為」と書く方が気に入っている。本書(『泳ぐ権力者』)では「形象行為」と書かれている。これはのちになってブレーデカンプが用意した造語で、英訳すると「image act」となる。同名の著書も存在する。
 個人的な言い方にしてしまって良いのであれば、「像行為」とはイメージそのものが持つ動的な働きを意味するのだと思っている。「百聞は一見にしかず」という諺にあるように、視覚的な理解は言葉を尽くしたものよりも強烈なものがあるだろう。この視覚的なものイメージと呼ぶ。それはPCのデスクトップやスマホの画面上に表示される絵付きのアイコンをはじめ、写真に写っている光景、物理学や生物学が用いる科学的な図形・人体図や、ある仕草をしている人物がまとうオーラ・雰囲気までを一気にまとめて扱う。

 これらの視覚的なものを受け取ると同時に、これらの視覚的なものから人間は思考を発展させることがある。
 例えば進化論の図形である。生物進化などを端的に説明する「系統樹」という図式は、三中信宏に拠る研究が示唆に富んでいるが、生物の進化における上下関係の観念も同時に引き継いでいる。「存在の大いなる連鎖」または「生命の樹」の系譜に飲まれた進化論の図式は、その本質に逆らって、まるで生命に序列があるかのごとく意味付けられてしまう。人間がミジンコよりも高度な知性と歴史を有するものだと、なんとなく思い込んで図式は作られている。
 一時期のSFが「進化」という言葉を多用し、人類文明のステップアップ(上昇)の観念を訴えかけたのと同様に、何かを説明するために用意した視覚的なものが、本人の意思とは無関係に成長することがある。ブレーデカンプは『ダーウィンの珊瑚』(法政大学出版局)で、実は当初ダーウィンは進化論を「樹」ではなく「珊瑚」の図形を用いてこれを説明しようとしていたことを明かし、それがもたらしうる意味を掘り下げている。こちらも示唆に富んでいて、非常に面白く読んだ。

 このように、理系・文系問わず、イメージは双方向的な独自の作用を持つ。「像行為」とは、視覚的なものを通じて、人間の意識(または文化・価値観)がいかに醸造され、逆に視覚的なものに表現しなおされるのかを、追い掛けるものだと個人的には理解している。像を結ぶこと(かたちを生み出すこと)は考えることであり、像が結ばれることで考えが促進するのである。宮崎駿のアニメーションだって、イメージによって作られているのだ。
 そうなれば、映像の世紀以来、イメージの影響力は加速していると考えた方がいい。いや、それは正確には、聖書のテキストではなく聖書の図像と偶像から教義を発信したゴシックの中世や、もっと昔からそういうものが眠っていたと考えた方がいい。本書はまさにカール大帝から描かれる「像行為」を通じて、カロリング朝の文化的世界を描写する。これは文化であると同時に政治でもあるのだ。

補論(妄想).現代の形象政治

 観念的なものは理解されにくい。しかし、観念的なものは、だからこそ人間の思考に感染しやすい。無意識に影響を与え、思考の基盤を成している。
 これはアーサー・O・ラヴジョイがすでに書いていることだ。だから僕はそのさきにあることを、思いつくままに書いてみよう。

 カール大帝が泳いだように、ムッソリーニも毛沢東も泳いだ。プーチンだって水泳を趣味とし、沐浴を公式発表する。この振る舞いにはマッチョイズム以上の、ある種の形象政治が入っているような気がする。
 だが、これは何も政治家に限った話ではないように思われる。タレントや著名人がサウナに入り、トライアスロンに挑むことと、カール大帝がプールで泳ぎ、森に狩猟に出ることとなんの差異があるのだろうか。

 古代・中世において、森に狩りに出て獲物を仕留めることが、秩序の外にある世界から富と支配力を象徴するように、現代ではビジネスで経済的な成功を収めることが、この世界に秩序をもたらす力を示唆する。
 同様に、一族・部下を引き連れてアーヘンの水浴場で泳ぎを競い、温浴を好むというカール大帝は、現代であればトライアスロンとサウナに熱中するだろうと思われる。そこでは文字通り胸襟を開き、肌を見せることによる親近感をもたらす。カール大帝にとっての「一族・部下」とは、現代においては「仲間とフォロワー」に相当する。動画に拠る露出・メディア展開は、公的な示威的発信であると同時に親近感をも与えるだろう。オンラインサロンはデジタル空間における人間関係の距離感を可視化し、形象政治は新しい局面へと移行しつつある。

 すでに高い影響力を持つものは、テレビには出演しない。むしろテレビに出演せずに、メディア展開を進めていく。ネットニュースや他のYouTuberの感想動画が自身の発言を拡大再生産する様は、さながら権力者が自身の栄光を彫像にして都市の中央広場に建設するがごとくである。そこでは多重にメディア化したイメージの独り歩きが繰り広げられる。泳ぐ権力者とは、常に濁流のごとき時代の波を掻き分ける形象の支配者でもあったのだ。

 ここで、やはりブレーデカンプが本書で示した警告と、全く同様のものが示唆されるだろう。すなわち「これは幸運に恵まれた支配体制が決して構造的にばかり理解さるべきではない」ということだ。
 「この体制はむしろ人物やグループ次第なのであり、つねにあらたに獲得すべく、いつでも危ない綱渡りだったのだ」。だとすれば、”いい人戦略”はそれなりの実効力をもちうるだろう。礼儀正しさも武器になるだろう。イメージは常に動的であり、流動的であるのだから、用心するに越したことはないのである。

 最後に。全く関係ない書籍から、形象政治の思わぬ側面を紹介してみたい。五味康祐の「桜を斬る」だ。『秘剣・柳生連也斎』(新潮文庫)所収で、寛永御前試合を戦った居合抜きの剣士2名の、しっとりと美しい対決を描く短編だ。
 物語の途中で、居合の奥義を体得した剣士にその師匠が告げる言葉がある。

 ──お前は居合の妙旨を悟った。太刀を抜けば必ず勝つ。併し、勝つのは一度じゃ。人間、己れ以上の技があると知るとかならずそれに打ち克つ工夫を人も凝らす。それゆえ、一度見せた秘太刀は、如何なる至芸であれいつかは敗れると覚悟せねばならぬ。兵法者が秘術を見せるは、それゆえ生涯に一度でよい。いつ、誰の前に披露するかじゃ。
(中略)わしはただ、「山を張る」という言葉があるが一度の秘太刀は、所詮山を張るようなものと申しておく。一生に一度、武士なら大山を張るべきだろう──これが一つ。次に、技の出来るに従って高慢になるのは、人間やむをえない。それをふせぐ手段は一つよりほかない。礼儀をまもることである。礼儀は、美徳ではない。それは用心を意味する。礼儀深い男とは、用心ぶかい者のこと──この二つを、忘れず覚えておくことじゃ。
 ──五味康祐『秘剣・柳生連也斎』(新潮文庫)p173-174より

 五味の小説の顛末がどうだったのかは、あえて省いておく。しかし、ここで武士(兵法者)とは誰のことで、技とは一体なんのことなのかを、うんと考えてみた方が良い。その行く末に、初めて形象政治の言葉が持つ趣きが、理解されてくるだろう。
 桜を斬る。実にこの小説の最後が、イメージを捉えかたをめぐる屈指の名勝負を描いた短編であったことなど、作者とて想像しなかったに違いない。あくまでこれは、筆者(八雲 辰毘古)の脳裡で起きた「像行為」に他ならないのである。

終わりに.ついでに読んでおくと楽しい本

 本書を読んだ後で、エルンスト・カントローヴィッチ『王の二つの身体』(筑摩書房・ちくま学芸文庫)を、そしてマルク・ブロックの『王の奇跡』(刀水書房)を読むと、より理解が深まるかもしれない。
 どちらも王権のイメージ・観念、あるいは信仰を扱う書籍である。こういう書籍は一見すると非常な古典であるため、難解に読めるかもしれないが、どちらも王に備わった特殊な権力と異能について、研究している。その点において、本書と読み合わせると、深みが増す印象を受けた。

 他にも、本書の巻末解説であげられた書籍のうち、ケネス・バークの『動機の文法』や『動機の修辞学』、または山口昌男の書籍を当たると本書の指摘の内訳がより深い理解に達するかもしれない。

▼以下、自作プロモーション▼

『小説家になろう』サイトにて、
ファンタジー冒険小説を連載してます。

双子の主人公、消えた父親とその記憶。
魔女狩りの絶えない社会、
魔物が現れ、暗雲垂れ込める世界情勢。

そして、隠された両親の秘密。
近さと疎ましさの錯綜する関係性。
世界混乱の理由は、
人々が見落としてきた"あるもの"の中に。

──これは、失われたものを取り戻す物語。

『聖剣と魔女のミュトロジア』は、
こちらから読めます。

※タイトルロゴは蒼原悠さま(@AzureFlag373813)に作成いただきました。

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