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ニーチェ系譜の失策から見る、世界(それが今どんな姿をしてようと)に対してできるだけの事をしてると言える為の条件について

2021-3-001

1 文系域と理系域の上限の差

文系域が理系域に比べ、帰属が操作されてる形を潰す働きが弱いのは、
同種の他との差異要素を捨象する着目無視という基盤からの逸脱が弾かれる(上層まで登れない)理系と、

同種の他との共通要素を捨象する着目無視という基盤からの逸脱が上層でさえ弾かれない(上で言う働きについての、弾かれる場合に可能な文系域の上限から見て、実際の上限が下がってる)、
つまり、上層すら対象に帰属してないものまで対象に固有のものと見なしてしまう(次善の策に過ぎないものが局面変化に関係なく居座っててもスルーなど含む)文系、

この差異に起因するのでないかと想像します。

別の言い方すると、主張選抜が選抜管理の機能してるしてない(その場における確からしさ差として取り出されるべきものと着目無視とが一致してるしてない)と無関係でも、
許されてる、まかり通ってしまう評価空間(フェアを越えて自他を助けてしまう救済観と表裏な、場の性質との乖離に対し厳格な反応が見られない世界)の上で、上層含め文系域が展開されてるせい、

特に、パラダイムを乗り越える働きが期待されてる層さえこの事態を齎してる枠組みに(余裕の有無についての局面変化と関係なく)甘んじてるせいでしょう。


その枠組みとは、主観のような個々の固有性が根拠になる局面(文系的局面)に対し、先の差異要素捨象と共通要素捨象の内、
前者の厳密捨象を持ち込むパターン、どちらも厳密には持ち出さないパターン、後者の厳密捨象を持ち出すパターンがあるとして、選択肢が前二つしかない状況を作ってるだろう二つの要因、

前者捨象特化と後者捨象埋没を導いてる捨象観、場に表層的要素込みで合わせる方向と場に合わさない方向を振り子する(表層的要素を取り除く方向に向かわない)解決センス、
これらをさらに遡る、近代始点での分離解放の成功体験(それによる内実改善の盲目化)、つまり、近代の事であると、
結局のところ言えるように思われます。


その一つ目のパターンは、近代以降の欧米の、理系での一流の実績の反映でしょうが、
局面の固有性(把握は後者捨象の領分)が前者捨象を要請してるケースもあるに過ぎないのに包含関係を逆転させた挙句、マニュアル仕事的な、各場の個性との齟齬を抱える対応に留まると言え、
二つ目のパターンは、近代教育が前提の社会では一つ目の反動と見なせる上に、対象位置づけが井の中の蛙的な代物に留まると言えます。

(具体形の差異パターンを網羅した上でなおそれらに通用してる状態、そこへの志向を放棄してるようなもの、
つまり、具体形パターンが5つあったとしてその1つや2つで全体を語ってしまう形に自らを仕向けてるようなものなので、
偏りを避ける的意図により選択してる場合、曖昧化がかえって雑な決めつけに至るという意図に反する帰結のように、また、理論の場合は意義主張と実態との乖離であるように思われます。)

どちらも場の性質(代替不可能な固有性)との乖離(例えば、損得や役回りへのアンフェアな態度)を保存してしまう為、
消極的か積極的かの違いはあるけれど、事実上の何でもありの弊害である、悪貨が良貨を駆逐し貨幣意義を崩壊させる的展開(相対主義的暴力)を呼び込む余地抱えた現実像しか持てない点は同じ、

例えば、近代人センスである限り、そうした内容踏まえた自由観(競争協調についての理解込み)やコミュニケーション観(送り手と受け手の把握文脈の不一致に対する反応方針)しか持てず、
文系域での主張も、知的権威が根拠にどれだけ知的側面を付そうとこの背景から逃れられない、そう疑えるように思います。



2 限界や弊害の指摘が有効でない件

ちなみに、その種の指摘、例えば、義務感や損得計算で倫理を語るなど、先の一つ目のパターンと整合的な解釈の理性を持ち出す事は、贋金作り的な悪質さを秘めてるなどの指摘が、
指摘で示されてる通用してない領域にも通用してる状態への修正を導くとは必ずしも限らないわけで、

冒頭で言う、帰属の操作を潰す働きの文系域での弱さを認めるなら、引き受けざるを得ない不幸とそうでないという意味で確定性の低い負うに値しない不幸との分別精度も、
影響力を持つ者と世界の現状(Aに帰属すべきものがしてない状態)との関係に対する理解の正確さも、知的権威ですら信頼に足るものでない(通用領域が狭い)と想像されますから、
都合の良さに塗れた現実理解を修正してまでいらぬ不幸の縮減に(単に帰属の修正を図るノリで)向かうには、現状の土壌は適したものではないのでしょう。


いずれにせよ、上の例で言うと、三つ目のパターンを採るよう(つまり、近代の外に出るよう)自己と外界に可能なだけ働きかけて、
把握文脈のずれを、できるだけの事をしたが駄目だったという確定性の高い内容に抑える以上の事は無理と割り切る、
これと同じ態度でいる事で自己の責任分は果たした形に持ってく、そういう話のように思われます。

実際、近代の限界や弊害を指摘し、近代の外に出るよう、
また、外に出る事で可能になる、より確からしいものが取って代わる運動性への阻害を文系域でも抑えるよう
(より確からしいものを二の次にしてる、つまり、より確からしいものとして扱ってない有り様は、何かを大切にしてるつもりでできてない形が不可避、
この指摘すら、自分の気持ちが内実改善と実質無縁でも最優先な近代人センスには無効と疑われる)
促してもなお出ない場合も、

結局は例えば、家柄の高低が確からしさ差になる局面もあれば、足の速さが確からしさ差になる局面もあるだろうけれど、今はたまたま後者だ、といった局面の固有性把握の精度が低いだけ
(自己の都合が優先される局面だと勘違いするなど、都合の反映の過不足もここに帰着する)とも言えるので、
出なかったところで三つ目のパターンを採るよう働きかける以上の事はできないわけです。


そこの低さの原因について、例えば、価値のある人間になろうとして妄信と反動反発の二択に陥る、つまり、
より確からしいものに閉じてる世界で仲間内での頭の撫で合いに終始するか、既存秩序の外にいるアピールで特別感の醸し出しに励むかの二択という、中学生的構造が、
近代枠組みの内側(第一パターンと第二パターンの二択)にいる知的上層にも重なるとすると、

実際にどう扱われるかは場の性質次第であると割り切りつつ、場の代替不可能な固有性に即した扱いしか認めない、
かつ、より確からしいものが取って代わる運動性を阻害しない(己の為す次元設定を、場の代替不可能な固有性に即させる)態度へと、
繋がらない教育(帰属を操作せずとも通用してる状態、つまり、実力の獲得へと素直に向かう為のケアがない教育)が展開されてきたという教育界の失策

(文系域でも差異への着目無視を局面と一致させ続ける能力が小学期から育成されてれば、ルールなり現実なりへの妄信と反動反発の同時抑制も十分期待できる)
が少なくとも原因の一部として疑えますから、

実際の扱いという表層次元に軸足置かないよう(実質が詰まっているいないによる肯定否定を、表層形への反応に先立たせる事で、知性不全にも繋がる、帰属の操作への寛容さを抑える方向に)促す働きかけを、
教育に取り込む修正作業含めた、その失策へのフォローを教育関係者に相当する人達に求めてく事も、
近代の外に出るよう促す働きかけには含まれるでしょう。

(上の態度を対有限性に拡張すれば、限定作用を不可避扱いしつつ内容の確定性を高める有り様となるので、
単なる限定作用忌避ゆえに、無限性や有限性と向き合うなり存在性を取り出すなりしてるつもりで、実際は矮小化させてしまってる対象との関わりに留まってると言えるだろうニーチェ系譜を、
乗り越える方向でもあるはず。)

そもそも、不備のある枠組みが影響力を持ってしまったにせよ、後続が速やかに修正すれば済む(不備由来の不幸の抑制を意味するので、提唱者のような帰属先の為でもある)わけで、

しかし、ヘーゲルの歴史観は未だに、具体化の精度問題(捨象の精度問題はこれまで見たように対近代)の欠落
(主観や理性がそうであったように、分離洗練させたけれど内実改善の側面が欠落してるという近代の症状が、統合対象の分離物に関する質の差異不問の形で現れてると推測)でなく、
何らかの具体次元の軽視という観点からしか修正されてない、

つまり、人類は、通用してない部分が有るか無いかの情報のフィードバック、ひいては(個人や社会の)歴史が可能だった最善と実際とのずれ部分把握が機能してない、
したがって、過去に対する過不足ない批判はもちろん、救済や犬死阻止すら機能させる事ができないでいると言えて、

上で挙げてる指摘行為の有効性の低さも、対ヘーゲルの的のずれという哲学界の失策(今や主流の哲学も自身のそれを修正してない点含む)の帰結と見なせる側面も十分ある、
哲学者に相当する人達はそう自覚するべきでないかと考えます。



3 第3パターン

また、三つ目のパターンにおける自由等についての理解は以下(場に即した捨象の帰結を負わせるよう限定作用に求めているいない差に相当)のようになると想像してます。

限定を与える側(管理側)に関しては、場の文系的捨象(同種の他との共通要素の捨象)で導いた性質を保障できてる状態に対し、それに失敗してる状態から見た差異が、
観点次第で自由なり平等(適正な扱い)なり責任(可能な解決)なりの実質と呼ばれるだけ(疑似的な問題意識や枠組みがそれを妨げてるだけ)で、

限定を受ける側(場におかれるもの)に関しても同様の事が、内在場の性質を文系的捨象で導いてる状態を、文系的捨象で導いた外在性質でもって具体化してる状態
(限定作用についての確定性を、内外境界に関して高めてる状態)に対しても言える。

(物理の現象なり法則なりに、たとえ理系的捨象の整合領域拡大を見て取ろうとも、場の管理側被管理側に要求される能力や対応の観点からは見ないように、
同種の他との差異要素の捨象という意味での理系的捨象のケースでは、たまたまそう呼ばれてないだけで、

そう呼ぶような観点や呼ばないような観点から、因果性保障として情報意義や反映意義の保障を包含する、有限性の意義保障の要請のようなものを見てるだけだろうと思われるわけです。)

ここで、当然、有限能力故に性質の深掘りには限界がある為、どこかで不確定に対する確定的扱いが必要になり、
その処理が暴力的(局面事情に紐付けられてるとは言い難いという意味での帰属の操作)なものになるのを避けようとすると、再帰的な無限後退が立ち上がってくるように思われるので、
次の理解も伴わせる必要があるでしょう。

世界には、限定される前と後という関係(与件としての有限性で、行き来として拡張すれば歴史性)の形骸化を、何ら限定されてない状態、及び、仕方がない類の限定作用、
これらの最大限準備でもって抑える、という問題(文理の別含む、捨象選択も限定作用)があるだけであり、
前段の理解で言ってる関係(自由等についての話)も、たまたまそういう具体的な形でそこから切り出されたもの。

自由等を以上の内容として、つまり、人間の振る舞いによらない意味での世界構造(特に、唯一あると言える問題)と紐付ける事で、人間の振る舞いによる意味での世界構造の現状の修正に、

言い換えると、内在事情や外在事情に対し確定性を問うてない類の都合の反映を許してると実質的に言える解決枠組み、この点が近代以降も変わってない為に生じ続けてきたいらぬ不幸
(負わされるに十分な確定性の高さ欠いたものを負わされてる事態)への対策として、必要と考えます。



4 知性や倫理を損なわせてる何か

個人的には、その変わってないと言える原因として、
奴隷として扱われる立場から扱う立場への反転願望の実現ようなルートを潰す仕掛けがあるとは言えない、求め続ける者問題を解消しないまま得る資格を開いてる、
この古代の直接的な関係にある二つの(宗教)理論が持つ問題点の保存にあると考えますが、

実際そうなのなら、その二点と有名な奴隷道徳糾弾との間のずれが修正されてれば、
その二点を抱えながら現実回すべく縛ったり絡め取ったりで対処した中世とそれを分離解放による洗練で上書きしただけの近代、というそれぞれの性格の全体像が文脈化される展開も、
つまり、その二点の保存を前提に該当する歴史事例捉える視点の獲得と現世界構造の根幹レベルの修正点の露出も、可能だったのでないかと思われます。

その場合、ニーチェ系譜に見られる限定作用自体への忌避が、限定作用に対する高い意識をそのままに、場に即した捨象の帰結を負わせるよう限定作用に求める内容へと修正されてれば、
採用してる道具立て等ニーチェの個人的事情や近代性によりいらぬ偏り負った、体系化の権化やその筋の元祖との関係も含めた、批判文脈に対する修正も、
露出した問題点に、内在事情や外在事情の確定性問う解決枠組みで応じる事も、
十分期待できたという意味で、

その近さ故にニーチェ系譜の失策であると、
かつ、先に見たように対ヘーゲルでの的のずれを修正してるわけでもない以上、歴史で可能だった最善としての、つまり、できるだけの事したけど駄目だった的な失策でもないと、
見なされても仕方ないような気がします。


そしてこの話は、文系域での具体化条件付し直しの能力、近代性を乗り越えた現象観、

これら(その能力が解決枠組みとして根幹を担い、乗り越えてない現象観との間にバッティング関係があると見れば、世界に唯一ある問題に紐付けられた問題意識や枠組みとしてまとめられる)がないと問題点
(ここでは、場の本質の下の平等とは関係ない対格差や対差別でも修正されないなどの問題解決観、フェアを越えて自他を助ける帰属操作込み救済観、これらを近代的権利観を盾とする典型弊害として持つ先の二点)を、

かすめていてさえ解決する方向に展開する形でパスを受け取る者(有名である以上多くの人がその立場になり得た)が出てこない事実を示唆してるように思われるので、
以下の理解を押さえる必要があると考えます。

(かすめた本人に至っては、対無限性において、過剰に負わせる対峙、対象を過大に割り引く対峙、
つまり、確定性高い有限性のみから成る状態へと有限者たる自己を持っていってないままの対峙でもって、
信仰や確信を十分と見なした結果の形骸的尊重、という意味で糾弾対象と同じ構造に陥ってしまってる。)


例えば、常識が場に即した割り振りを阻害してるとして、
その常識から特定時空性(加工条件)を一旦可能なだけ剥ぎ取った上で、置かれてる場の性質上、置かれてるものにとっては引き受けざるを得ない特定時空性を付し直したものと現状とのずれを否定対象と位置づけ、
己の内在事情と外在事情を先の第三パターンベースで捨象したものから成る場に即した形に、否定反応を具体化する(表面上否定してないように見える事も十分あり得る)、

こうした処理能力が獲得されてなければ、
己に瑕疵がない(抽象化具体化の行き来である歴史性の捨象精度が最大化されてる)のに(場に即した割り振りとして)責任取らされてるように見える事態などへの妥当不当判定も正確さを欠くわけで、
ポジション上解決を引き受ける系の問題の選定にも響くだろう事が想像されます。

そもそも、具体化条件の付し直し能力は帰属の検討や修正の実質に当たる(前述の実際受ける扱いに軸足を置かない態度を可能にするものでもある)為、その欠如は、

例えば、嘘は無条件で糾弾するのに演出には無批判レベルで寛容、といった加工原理欠如な有り様、
愛については歪んでいるいないを分別し糾弾するのに利益にはしない(もしくはその逆)とか、
場に通用しないと存在できない的圧力と同等な処理を内面場で情報に対し展開しておきながら、自身の置かれる外在場の性質に合わせる事を拒む(当然、場の性質の掘り下げの論点化はない)といった恣意的な有り様、
そうした外界への確からしい説得力を欠いた修正圧力生むのはもちろん、

情報獲得に際する批判的観点の実質的欠如
(妄信的態度による情報量拡大は次善の策と言えるだけの局面事情がないなら、帰属の操作への問題意識が不十分なまま何かを得てる以上、不当利得と大差ない)や、
帰属の修正の一環としてたとえ妥当であっても拒絶するような、受ける批判への過剰反応(行動原理等の仮説でしかないものをより確からしいものへと差し替える作用に阻害がある状態)、
そうした帰属修正の機会を能動的にも受動的にも逸してるというレベルの知性不全を意味するわけで、

対体系でも表層的でない問題点に辿り着ける可能性は当然低いだろうと想像されます。


また、理想を過大に割り引いてるのにその理想を大切にできてるとは言い難いのと同様に、過小に割り引いてるケースも大切にしてないと捉えるには、
恐らく、近代人センスからの、分離解放の成功体験を当時の次善の策と見るという意味での卒業が必要でしょう。

例えば、感情を加工なく表出してる時も、それが許される局面だったかそう勘違いしてるだけとすれば、
さらには、内在性質と外在性質が(有限性の与件性から立ち上がってる内外境界上で)合わさって現象(両性質が代替不可能的であるほど確からしいもの)になるとしてれば、

過小な割り引きも、負わせるだけの十分な理由がない要素、つまり、場にとっての表層的要素を負わせてる形という意味では、過大な割り引き時と同様の構造をしてるように思われますが、

外在性質と完全分離された像(限定作用自体の忌避的自由観もこの一種)や、情報が足されない具体形変転(トートロジー含む)の像を、
局面事情に即した捨象とは無関係に持ち出すのを許すという方向に、近代性は強化させてる形に思われるからです。

それは近代枠組みが、分離洗練を齎す一方で内実改善の観点が欠落してる(主観や理性も現状はこの産物)という特徴を持つからでしょうが、
より確からしいものが取って代わる運動性(無限性)に対する阻害がないと言える場
(場の規定が、その運動性を限定する作用に相当する一方で、その運動性の帰結であるような場)が、
その運動性の要請(その場で生じたもののフィードバックによりその運動性が自己足るという、有限性の意義保障の要請)として求められてると解した上で、

その場に置かれてるものは確からしい扱い(適正な扱い)を受ける(場の本質と着目無視を合致させつつ対象を扱う平等観や、フェアを越えては助けない救済観の根拠)、
先の現象観や問題観(限定作用の形骸性低減という、世界に唯一ある問題)も話はそこに帰着する、

そう捉えれば、根幹的問題と言えるだろう件の二点も、それに被さってる形の近代の暴力性
(第一パターンと第二パターンの外に捨象観が出ない、つまり、行き過ぎた合理化的暴力と部分でもって安易に全体を規定する的暴力、少なくともどちらかを持たないわけにはいかない暴力性)も、

結局は、負わせる負わされるに関する上の運動性(いらぬ不幸への忌避含む)に対する阻害の現れと言えるように思われます。

(先の対常識で見た構造を、管理被管理関係にも、人同士や国同士の関係にも持ち込む事が形骸でない自他尊重に当たると位置付け、
例えば、対帝国主義に見られるような、受けた扱いを与える側に回るとか、アンフェアな利得の願いを叶えてあげたり叶えられる杜撰なシステムを構築する方向に解決見るとか、
そうした、各場に根ざしてる割り振りとは言えない利得やその分奪われてる何かの存在を、前提にし続けてる形の精神性が過去のものにされてれば、

人権や知的財産権での大規模なフリーライダー戦略の実態が知られて以降、マイノリティや学者に精神的にでも近しくなるほどフリーライダー状況、
つまり、意義変質や搾取構造の見られる状況への擁護は減るだろうといった単純な予想すら、裏切らせてくるという懸念を抱かせる、
件の二点と近代権利観の合わさった枠組みは、精神的な老害扱いを受ける時代性が醸成されてたはずで、

そう認めるなら、世界に唯一ある問題に紐付けられた枠組みの根幹故に上の運動性の阻害除去でもある、第三パターンによる具体化条件付し直しを、
手に負える領域負えない領域の線引き含めた、関係性の規定に持ち込まないまま、つまり、関係性の内実改善についての観点を事実上欠落させたままの働きかけで、
知的上層すら対世界の有り様に満足してきたつけとしてのパス逸であるように思われます。)



5 結論として

さらに、以上の理解を理系域との比較で捉え直すと、
理系では、仮に理解に際して、具体化条件の付し直し作業(世界に唯一ある問題、つまり、何ら加工されてない状態の準備とやむを得ない類の加工条件の割り出し、
この作業を踏まえた、対象に関する抽象具体の関係構造の像の検討)を、
後回しにしてたところで、説明ができないとか上手いとは言えない状況がそれを強いると、少なくとも知的上層には期待できるのに比べ、

文系では、その作業を厳しく反映してるとは言えない(井の中の蛙的状態に留まってる)類の倫理フィルターが、
限界や弊害の指摘すら、取り合うに値しない表層的要素扱いで処理するという、解決対象取り上げの選抜処理をご都合主義的な反応として引き出してしまう為、

論理展開(通用が行き渡ってる状態を保存しつつの表層形変転として捉えてれば、数式展開すら上の唯一ある問題と重ねる事ができるはず)についての、
誤解されたイメージに引きずられた理解観(何を保存してるかについての誤解込みの対象理解)と相まって、
知的上層ですら、理解内容を確からしい全体像の下で位置づけし直す働きが、上手く機能してこなかったのでないかと疑います。

なので、世界に唯一ある問題(何ら加工されてない状態の準備とやむを得ない類の加工条件の割り出し)を、

対象によらず対象が適正に扱われる場と、己との遠近なり余裕の有無なりとの関係(後者を、選抜含む、対象の扱いに過剰に反映させない為)や、
その場を、損得や役回りの帰属が、場の代替不可能な固有性に即した割り振りに根ざしてる状況と捉えた、より確からしいものが取って代わる運動性との関係(確からしさの差として着目する差異を規定する限定作用)に、

また、捨象対象選定と文系的捨象による局面の性質特定との関係
(局面の代替不可能な固有性に根ざした前者を、対象理解に先立たせてる状態がデフォルトになれば、文系的捨象が理系的捨象を包含してる脱近代状態が達成されてる形と言えるはず)に、

重ねた、負わせる負わされるについての内実改善の自他への、各々抱えてる条件の下で可能な働きかけが、
世界の現状(それがどうであれ)から目を背けずになお、自分としてはできるだけの事をしたと納得できる(対世界が十分に確からしいと言える)為の条件であると期待します。

(人の振る舞いによる類の世界構造の、現状に見られる問題点が、百年以上前にかすめられたにもかかわらず今なお無傷である原因を、
ヘーゲルの歴史観に対する修正不足からくる、歴史で可能だった最善の構造的未達という、後続者の歴史紡ぎ問題に見るとしても、

望ましい歴史展開の一種に論理展開もあり、論理展開の誤解が先に見たように理解観の誤解に絡んでいて、
割り引かれ構造や主語述語関係へのプラトンの理解と世界に唯一ある問題とのずれが修正されてれば、少なくとも、それらへのカントの理解が持ってるずれの影響力も別様だったろうと思い描けるので、

この角度でも、人の振る舞いによらない類の世界構造と持たれてる問題意識や枠組みとの間にあるずれ、その意味での表層的要素がいらぬ飛躍として取り除かれずに来た為に、よる類の有り様にも響いてる、
という全体像自体は、修正可能機会を目一杯取った捉え方になるだけで、変わらないと思います。)

ご支援の程よろしくお願い致します。