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善や正義の立場に立つ際の資格、さらには、いらぬ特化(避けられる死角をわざわざ持つようなもの)を抑えた問題解決について(700字ほど補足)

2020-8-004


特異に思えた有り様なり結果なりに大きく反応する子どもとそれを止めさせる大人のような構図を、
就学前に経験していておかしくない点を踏まえると、就学以降、差異への大騒ぎと見て見ぬ振りの同時否定を、
他人への接し方(適正な扱い)の方針に、また、自己の精神を囚われてない状態に持ってく、
さらには、自身の悩み苦しみの過大過小を抑える自己救済の方策に、
位置付ける子どもがいても不思議でないはずです。

ところで、ある他者の不幸を根拠として示した上で、何かを達成しようとする場合に、
その達成が上の自己救済への道を断つ側面を持つなら、
少なくとも、助ける事は実質二の次、つまり、他者の不幸を利用して何かを取りに行ってる形に思われます。
他方で、搾取や分捕りなど、他者の不幸を織り込んだ類の獲得を咎めたり断罪してきたならば、
同じ構造をしてる以上、矛盾を、整合的原理の不在(自分は殴って良いが他者は駄目)を意味するはずです。

ここで、他者の不幸を自己の不幸に置き換えても同じ事が言えるとすれば、
日常いくらでもありそうな、自己についての不幸感からくるアクション
(及び、当然反映されてるだろう、他者におけるそこの結び付き具合への納得感)も、
大した根拠がない(通用が行き渡ってない)のにあるかのように偽装してる代物になり得ますし、
不幸の所在によらない、善や正義の立場に立つ事それ自体の資格
(やることやってないのにと言わせない為の条件)として上の自己救済への志向が疑えるように思います。

その資格を持つ者が少なければ、世界標準の知性や倫理を未だ偏向させ続けてるここ数百年のパラダイムや、
秩序に対し安保理権限の裏返しレベルの責任負う身でありながらフリーライダー追求してる国など、
そうした規模(影響及ぶ範囲が人類規模)も射程に収めた、不当な扱い発生源への対策が求められたところで、
良くて、内実は歪んでる(不当な扱いの発生源になってる)が表層的には対抗し得る何かの用意、
という焦点ずれてるが故の弊害(いらぬ対立構造の弊害)不可避、
その分、解消上限が可能上限よりも下がってしまう為、上の自己救済の阻害問題は全員当事者に思われます。


そもそも、原理を欠いてる状態で問題解決(いらぬ特化が不可避)する事に対し、
次善の策以上の価値付けを与えていたら、
次善の策扱いしてる時よりも、本来(特化の過不足なし)からのずれが積み上がってしまうわけです。
(実際問題、歪んだ愛と歪んでない愛を厳密に選り分けられる原理を、付随させずに愛を推奨するなどの例が、
質を不問にせざるを得ない局面かどうかと無関係に見られたり、無関係でも疑問を持たれなかったりは常態。)

確かに、問題解決に関する確かな原理を人類は見出した、とは言えない現状では、
原理を志向しているいないによらず全ての問題解決(保留選択含む)が小手先と言えるのかもしれないけれど、
志向しない(いらぬ特化に鈍感)のはそれだけで、
小さいもの含めれば日常無数にこなしてる問題解決(生からして場に通用させる試みとも言える)において、
上のずれを安易に積み上げてる有害行為と言え、志向してない解決を推奨したり求めるのも当然話は同じです。

また、個人的には、有限性(内外境界)を根源的与件と認める
(その種の内容として現実に向き合う)だけでは不十分とし、
確からしい根拠があるなら引き受けるから、
その代わり、負わされる際は確からしい根拠が伴う事を要求させてもらう、という構造を、
外界から負わされる構図においてはもちろん、
自己が他者に負わせる構図や自分が自分に負わせる構図においても持ち出しているいないの差の問題
(もう片方の根源的与件、より確からしいものが取って代わる運動性を、そのように有限性に反映させる話)
として対有限性一般を捉え直す(善や正義の文脈でも、対不確定や対安易確定の文脈でも、
その構造をバッティング状況の解決基盤とするなど)必要があるのではないかと考えます。

つまり、自己についての有限性の形の肯定にしろ、それを根拠にした外界への影響の肯定にしろ、例えば、
自己におけるできるできないとか、一目惚れも引き起こすような無自覚に構築してるこうあるべきに対し、
己の資質と環境、内面と局面を、
内在外在の性質と見て、代替不可能な要素だけ取り出し応じた結果に限定したり、
抽象物と具体化条件と見て、最大限高精度で為した抽象化具体化の行き来の反映に限定したりと、
上の構造(それら肯定を林檎なりまだ見ぬ何かなりを数える次元とすれば、数を数える次元に相当)に、
落とし込みつつ為すべきものと考えるわけです。



歪んだ愛歪んでない愛(注、歪んだ憎しみ歪んでない憎しみでも同じ話)のところに次のイメージを補足。
その種の選別と、
次元設定(着目無視設定)自在性という人間性(人間の有限性の形、もちろん、生物のもある)を、
(その自在性からくる、どこまでもずれていきかねない暴走しやすさ、振り回されやすさを、)
冒頭で言う同時否定やそれによる自己救済
(その言い換え、フェアを越えては助けないと自分に言い聞かせる自己救済)の実体である、
場の本質と着目無視との合致方針(算数文章問題や理科実験での次元設定処理を一般化したもの)でもって、
制御できてないできてるとは重なる。

他者に負わせる構図のところには、そこの合致に成功してる割り振りを、
引き受けない(レースでの正当な順位付けを拒むなど)のは、
純粋に他者の責任(従って、かけて良い迷惑もある)としつつ展開するイメージを補足。
(当然、その場その場の性質把握の精度や、高精度把握で得たものを損なわない形式、帰結の組み上げが、
それらを捨象対象選定にいらぬ偏り持つ故に阻害する既存パラダイムとどう付き合うかが、
焦点になってくる点も。)

これらイメージを踏まえると、結局は、
レースでの正当な順位付けを拒んでるも同然な事態(及び、不当ケースが齎してる事態)に対する、
修正対象扱いの可能な領域が大した根拠なく限定されてるのにそのままでいるセンスを齎してきた、
算数文章問題や理科実験での次元設定処理を一般化させてあげる事ができてない教育に、
泣き寝入り強要のない合意点の不在(形骸な秩序)の原因を、
先の焦点(恐らく、上で言う自己救済を、有限性の形、つまり、特性に対する確からしい根拠伴った肯定を、
実質として可能にする、局面の性質と捨象対象との合致)取り込んだ再構成という喫緊の課題を、
見る事ができるように思われます。

ご支援の程よろしくお願い致します。