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2491文字、知性や倫理や美意識を疑似問題に注ぎ込んでしまわない為に(自由や平等についての誤解、哲学の再位置づけにも触れつつ)

2023-9-006

解消できてない事態に対し焦燥感なり閉塞感なりを覚えたとして、そうした事態や感覚を負と見なし、無化や反転を試みる対象扱いするなど、
表層形のみで断罪する次元(内実の確からしい表層形の否定や、内実の確からしくない表層形の肯定が、生じ得る次元設定)を生きてる状態から脱するには、

フェアを越えてまで自分を助けない方針の採用をもって、その結果に生じるものには受容に値するもの扱いする
(負な表層形であれ、それ自体でなく、帰属関係に修正余地がない状態から見た過不足を修正しにいってる形)必要があると想像します。


(有限性とより確からしいものが取って代わる運動性とが阻害なく統合してる時、
帰属関係は有限の与件性に帰属があり、修正余地がないと解するとして、代替不可能な内在性質外在性質から成る現象は修正余地がなく、

内在場外在場含む、場の疑似でない個別性に即した割り振りへの支持の意味でのフェアの保持は、
場との整合という場全体に通用を行き渡らせる確からしさ獲得と引き換えの、合わせる分だけ場に置かれたものが負う限定性に伴う確からしさ低減を、
疑似でなさの追求という確からしさ獲得で補填した結果な秩序有り様の確保であって、その種の現象と整合的です。


また、その種の現象が不幸形をしてる場合、その不幸は有限の与件性が持つのと同等の受容せざる得なさを帯びてる一方で、
それ以外の不幸まで世界形式の責任にするのはなすり付け的帰属操作であると言え、

両者は言わば、無限者との対峙を、代替不可能な内外事情にしか応じない実存に限定する事で上の補填を達成し、
限定前後での通用量保存に対する志向の具現をもって、通用が行き渡ってるとの意味での無限性を拒絶してない証拠にしてる事態と、
歪んでいるいないの分別原理を付さずに愛等の推奨を神の名の下に為し、内実が確からしくないものの実践の帰結まで神の責任になってる事態との関係であって、


同様に、その実存だけから成る社会と社会の実際有り様とのズレまで、世界形式に帰属するかのように解した受容や糾弾は、
帰属操作の産物なので、このズレとの付き合い方をその実存をもって為しているいないの差異を論点にできないところまで含めて、

同種の他との共通要素捨象を用いた抽象化具体化に関する不十分さ解消状態からのズレ込みで、
文系事象の対象理解としてなくても、権威になれるし、権威を誇れる文系空間有り様の弊害と思いますし、

実際、権威が誰かの知性倫理美意識の働きを、例えば、競争形か協調形かの表層形二択地平に押し込める作用を見せた時点で、
表層形が上の実存だけから成る社会の産物かどうかの観点の埋没、ひいては、埋没によって保存される帰属操作に対する責任が生じてるはずです。)



そしてその理解は、自由概念に対する誤解の構造と重なり、フェアを越えてまで自他を助けない方針と捉え直した場合には、平等概念に対する誤解の構造と重なるとも想像します。
局面と着目無視との合致への志向が先立ってない状態での自由不自由や平等不平等は、負の表層形への反応の過不足の反映物であるとの推測です。


さらに抽象化すると、具体化精度確保が先立ってない状態での知性倫理美意識は、
疑似問題の為に働かされてる側面を持ってしまってる、そう言えるように思います。

フェア志向の不在は感情選抜であれ意見選抜であれ、局面と着目無視の不一致の分だけ選抜精度の低さを意味するのに、
フェア志向(としての具体化精度確保)を求める教育が、少なくとも、客観視を求める教育と同等の地位を得てない現状の続く限りは、


もっと言うと、同種の他との差異要素捨象が文系的局面(個別性が根拠になる局面)への領域侵犯を咎められないとの意味で過大評価され、
かつ、同種の他との共通要素捨象が文系域での基礎扱いを受けずにいるパラダイムが主流である限りは、

文系事象に注ぎ込まれる知性倫理美意識は基本、疑似問題の為に注ぎ込まれる側面を内包した形に成形される環境に置かれ続ける
(場の疑似でない個別性を損なってる体系と損なってない体系とのズレ部分にのみ付き合わない能力、

したがって、秩序有り様に対する妄信と反動反発の二択地平から脱してると言える為の条件であり、
また、後者的体系を紡いでる為に体系変化の根拠を場の疑似でない個別性の変化に限定してる場合の歴史と、実際の歴史とのズレ込みでの理解を、対歴史において持てる為の条件でもあるこれが、

対その成形環境に際して必要だけれど、その獲得に既存の教育を頼れない)と解しましょう。


(出がらし的イメージを逆手に取り、上の意味での基礎への特化の立場での現象解釈の体系として、
もちろん、構造なり原理なりについての把握を仮説とした場合の、仮説改善運動性に対する保障、
つまりは、検証に開かれつつの具体化精度確保に対する保障の側面を形骸化対策で組み込んでるそれとして、

再構築した哲学観を採用する場合にも、対主流パラダイムに際して同能力が、
さらには、理想現実関係を抽象化具体化不十分さ解消と結び付けられないままプラトン以来今に至る哲学有り様を保全する力に抗するのに同能力が、必要と思います。


実際、相対主義的枠組みや絶対主義的枠組みを使って正当化し、都合を通しにいく帰属操作に、哲学の見た目を持たせてるだけな言動に振り回されるのを抑えるには、
真善美との対峙を上の実存に限定する事で上の補填を達成してる状態から見た時の、真善美との間に生じてる距離の過不足を修正余地扱いできる必要があり、

ここでの達成状態は、実存を場とする具体化精度確保の上限地点に他ならず、
価値というものに対する言及における、場が価値を決めるという現実と真善美との間のバッティングを、確からしさの上限補填で解消する枠組み以外の内容を、帰属操作扱いしてる形であって、

さらに話を対哲学に限らない、振り回されてる読書体験の積み重ねで満足し誇りさえするなどの、文系的情報の獲得機会持ち腐れとして拡張し、
この上限地点からの乖離縮減を先立たせつつという配慮が、情報獲得に質を持たせる条件であるとの理解に繋げましょう。)

ご支援の程よろしくお願い致します。