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人類から有限性(これ自体は与件)に振り回されてないという意味(単なる割り引かれ忌避でない)での自由を奪ってる人達に組みしない為に

2022-2-001

内面世界も局面も場として捉えつつ、各場の代替不可能な固有性に着目無視を即させる
(各場の疑似でない固有性への尊重に、次元設定自在性という人間性を注ぎ込む)、

この有り様(対有限性)以上のものを(例えば、思考展開に関して)他者に求めてる人が、人間に絶望してるとしたらそれは、
過大な期待を前提とする否定(冤罪的側面込み)であり、代替不可能な有限性に帰属してない
(負わせるだけの十分な理由のない)ものを負わせる類(善不在)の都合の押し付けであるように思います。


逆に、代替不可能な内在事情外在事情にしか応じない主体像の帰結ではないのに、
失敗や不能(実力向上の機会逃しに繋がる否認込み)等を受容するというのは、

理想を割り引く程度に関して、代替不可能な内在事情外在事情が許す範囲で可能なだけの抑制をしてないものを、してるものと同等に扱う
(内実の確からしさの差異を、局面と関係なく無視してる)、割り引きへの過剰肯定でしょうから、

人間肯定の中身がそれであるなら、都合を通す(負わされを受容する)処理が不問方向に寄ってるように思います。


なので、人間(当然、自己も含む)への肯定否定から過剰性を取り除くには、
代替不可能な有限性だけから成るものに価値を覚える(大した理由のない限定の産物に価値を覚えない)方針が必要と思われ、

その価値観が実質としても持たれてる時、その主体は自他の有限性に振り回されてない状態(有限性を与件とした上での自由)が確保されてる、
つまり、その価値観を実質としても持たせる事が、その主体を自由にする事に相当すると推測します。

(この時、その自由が被限定に対する限定理由の代替不可能化による通用性補填であるのに対して、
内在不問外在軽視という単なる割り引かれ忌避である、言わば、有限性の与件性と向き合わないで済む生をねだってる否認な内容の通念的自由、

言い換えるなら、場の上に立ち上がってるものへの、場の疑似でない固有性に即しているいないとは関係ない、
もっと言うと、各場の疑似でない固有性への尊重とは関係ない肯定否定を内容とする自由は、
かえって通用性を下げる、通用領域狭めるだけで終わる形骸という位置づけ。)



そして、その価値観に実質を与える能力と言える、代替可能な要素(表層的要素)と代替不可能な要素
(それがそれである限り引き受けざるを得ないという意味で、通用領域が最大化されてる要素)の分別能力は、

同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化の不足(文系的局面におけるいらぬ飛躍)を、対象に見出す能力が、むしろ埋没させられる教育環境故に、
その文系的側面については、自力等の学校教育以外の方法で獲得する必要がある為、

現状、既存の教育環境を保全する圧力は、形骸でない自由の獲得阻害と言えるはずです。


フェア志向(文系的局面での具体化精度最大化)に客観視と同等の地位を与えない教育
(子どもから文系域での選抜精度、ひいては、問題点把握や過大評価過小評価把握の精度を奪ってる教育)が、
フェア志向を忌避してる(冒頭で言う着目無視を理系方向に矮小化してる)文系者でも知的上層になれる状況を作り、

その種の文系者が影響力を持つ事で、フェア志向(及び、先の抽象化具体化の不足を見出す能力)の有無が実力判定に直結する知的環境への移行を難しくしてる、

このサイクルが、人類から形骸でない自由を奪ってるようなものだと捉えましょう。
与件である有限性に振り回されてないという意味での自由を、人類から奪ってる人達に組みしない為にも、
フェア(各場の疑似でない固有性に即した割り振り)を越えて助ける助けないの二択において、後者を選びましょう。

(対自己に関して後者を選ぶ場合、先の主体像から乖離してまで情報であれ可能性であれ獲得しない生となり、
前者を選んでる場合、不当性が発生してるとの感覚は、下の事情で井の中の蛙状態故の過大評価過小評価を含んでると言えます。)



既存の教育は、受けたところで、同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化の不足を、対象に見出す能力の獲得には
(例えば、小学生がそれを持ってないなら、親権威に対し反動反発か妄信という囚われてる点で違いがない二択を、つまり、冒頭で見た構造を強いられてるも同然と言える上、

そもそも、自由概念が単なる割り引かれ忌避に留まり、符号によらない囚われ忌避とならないのも、
この場合、異符号を個々具体と見たそれが、概念に関する情報に対して働いてない現れなわけで、生有り様に直結する能力なのに)繋がらない為、

その能力を持たない(文系的局面でのいらぬ飛躍をそのレベルでは修正できない、
良くて、実態主義止まりの)人が、文系域での自己判断の精度を高く見積もり過ぎてる勘違いに関して、
学力の高低によらずそれが生じる(教育効果が波及しない)状況を作ってる上に、

内実が確からしくない(いらぬ飛躍を含んでる)もののごり押しに、知的権威
(通用の行き渡ってる選ぶに値するもの感)を付す偽装の要素が加わる事態の原因にもなってると言えます。


こうした傾向持つ時代を終わらせるには、これまで教育されてこなかった、同種の他との共通要素の捨象能力と共に、フェア志向の育成を教育に組み込む必要があって、
というのも、フェア志向育成は、単なる割り引かれ忌避な反応(通念的自由観の現れ)から、各局面の性質に着目無視を合わせる捨象反応への移行を意味し、

その移行は、理系で言うところの、検証実験で通用してないと判明した仮説の再構築に相当する作業を、都合の悪さに対する過剰否認が阻害してしまう事態の抑制として働くだろうから、

つまり、フェア志向を持たない人は文系域での、持ち合わせてる抽象具体の関係構造(実力)が現実の複雑さに通用してない状態を修正する力が弱く、
先の不足見出し能力(文系的局面での、新しい具体形パターンの発見を、抽象次元の通用性向上へと繋げ、
その下で個々具体を再位置づけする作用の最大化に必須)の欠如に等しいからです。


なので、フェア志向を忌避してる文系者はじめ、フェア志向とバッティングする自由観の持ち主による対文系域の言動に対しては、
権威が付されてようと、いらぬ飛躍が多分に含まれてる

(形式の選抜や運用がフェアの上で展開されてる時、確からしい内実が形式に与えられてると言えるとして、
内実は確からしいけど表層形は望ましくないものより、内実は確からしくないけど表層形は望ましいものを選ぶ人が多いほど、表層形断罪の時代は維持されるだろうに、

形式に確からしい内実を持たせるという観点が、例えば、次元設定自在性という人間形式についても、競争や協調という形式についても、事実上ない)との理解をもって付き合いましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。