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状況改善を、過大要求過小要求へと落とし込んだり、改善余地ある状態の正当化の為に矮小化したりへの対策について

2022-11-001

場(内面世界込み)の上に立ち上がってるもの(形式含む)が、場の疑似化してる固有性の反映であったなら、疑似化してない固有性の反映へと修正する

(場から受ける整合を拒否するかしないか的発想から、一旦抽象次元に遡って具体化条件を付し直すという、抽象化具体化の不十分さを縮減する内容の発想への置き換え、
場の尊重に関する林檎は数えられるけれど蜜柑はできない的原理不在状態、つまり、自他の内面世界の尊重もできてるつもりにしかならない事態からの脱却でもあるそれを含む)。

この作用(具体化精度の最大化)が文系学問に通底してる状況へと持ってく必要が、日本に限らずあるのだと思います。


例えば、短距離走において取り出された差異が、何らかのアンフェアの帰結である場合は、
理科の実験の条件設定をミスってるケースと同じで、問われてる差異を取り違えた形であり、冒頭での前者的反映と見なす。
(この意味で、フェアは選抜精度の最大化と言えて、

感情も内面世界での位置づけ選抜である以上、フェア志向に対して覚える否定的感情は形骸物と見なせるのに、フェア志向を支持しないままでも知的上層になれてしまう、
つまり、教育において、その事実上の具体化精度への問題意識をもって文系域での仮説への改悪フィードバックを抑えてくれるフェア志向が、養成の対象になってない、という現状は、

意見選抜をはじめとする選抜の精度が低くてもやっていけるぬるい環境の産物であっても権威を持ててしまう状況の、
選抜精度保障を齎してくれるものの通底化による改善が、知的領域にとっての喫緊の課題である事を意味してるはずです。)


それと同じ枠組みで、競争の末に生じてる格差が修正の必要なものなのかどうかを評価し、
必要なものであるなら、修正するという主題を冒頭での後者的反映でもって具体化する(先送りも当然あり得る)処理反応をもって、
いらぬ飛躍除去を矮小化させてない知性や倫理が、競争に関して働いてると捉えましょう。

局面(の疑似化してない性質)と着目無視とが合致してる下での振る舞いは受容しない方に非がある、
との理解をもって差別やハラスメントが、あるいは、対自己(自由観)が捉え直されてる時、
いらぬ飛躍除去の働き(倫理や知性)は矮小化されてない(搾取もその一種である、帰属の操作に転用されてない)と捉えましょう。


場に置かれたものが冒頭での後者的反映としての整合を受けた結果の具体形(具体化精度の最大化された具体形)によって、
10秒前のそれ5秒前のそれ1秒前のそれ等々にとっての抽象物が構成されてるなら、内実の確からしい実存(いらぬ飛躍のない固有性)として捉え、
また、その実存像から乖離してる部分を修正対象と見なしつつの抽象具体関係構造として、それへの理解を組み上げましょう。

(例えば、自由観や平等観は、局面と着目無視との合致を、つまり、問われる差異が取り違えられてる事態の阻止を、
重視する認識場に置かれ、過大反応過小反応を抑えてくれるその合致による振り回されなさを反映させてる自由観や平等観からの、乖離部分を修正対象として捉える必要があるように思われ、

含まれてるいらぬ飛躍をスルーしてないこうした理解の集積な場において組み上げる何らかの像と、スルーしてる理解の集積な場において組み上げる同像との差異に、
民主制や市場のような個々事情の集積場において実態主義に留まってしまうという問題点とも通じる、質の問題を見ましょう。)



ところで、冒頭で言う移行には、同種の他との共通要素の捨象が必要ですが、
この捨象アプローチを埋没させるパラダイムに欧米も縛られてるので、同種の他との差異要素捨象が必須な理系と違い、むしろ欧米文系の産物である枠組みは刷新対象と見なすべきです。

例えば、人権主権の対立構図も、個人の外在場と国の内在場、国の外在場と国際社会の内在場を同一視した上で、
プレーヤー立場と管理者立場とを、それぞれの立場から冒頭で言う移行や移行後状態維持を達成する協力関係として捉えれば、必要なくなるはずです。


平等と自由の対立構図も、理性と感情の対立構図も、不当合理と過剰特殊との二択の振り替えパラダイム
つまり、同種の他との差異要素捨象アプローチの領域侵犯とそれへの単なる反動反発から成る枠組み
(上で言う埋没故にこの外に出られない有り様)で世界を解釈する、よくある反応様式の典型例ですから、

外在不問内在軽視と内在不問外在軽視との間の振り子で話を終わらせるこの矮小化枠組みを、冒頭の移行枠組み(具体化精度の最大化問題)に、
場の性質の疑似化を他の場による被越境と同一視した上での、場(局面や内面)の疑似でない固有性の尊重が、
その内実である時に肯定される概念群としてそれらを捉える事により、上書きしてしまいましょう。


さらに踏み込んで、プラトンアリストテレス以来の枠組みも、以下の理解をもって刷新は可能と思います。

石材と彫刻家と彫刻像との関係も、行動原理と環境と実際の振る舞いとの関係も、
限定を受ける前のものとそれを限定する条件との関係が、不十分ではない抽象化具体化から成ってる時、限定の前後で通用量は保存されてる
(通用領域の広狭と確からしさとの相関から見て、帰結が選ぶに値してる)、
この理解枠組みをもって捉えられるべきものである。

理想と現実の関係も、世界と主語(構成的な切り出しも込み)の関係および主語と述語の関係(修飾関係込み)も、同様であり、
最も遡ったケースとして、無限性と有限性(存在の前提である、有と無の差異込み)の関係がある。


より確からしいものが取って代わる運動性を無限性と見なした時、仮説と検証実験の関係における具体化精度の低さを原因とする改悪フィードバックから類推して、
有限性形態が具体化精度最大化の帰結であるなら、無限性は無限性たり得る、したがって、

無限性が無限性たるべく有限性を要請してるなら、より確からしいものが取って代わる運動性を反映させた具体化ではない有限性形態は形骸と言える。
この時、欠ける事によって形骸化を引き起こしてるものが存在理由(人生の意味論の答え)に相当し、

次元設定自在性という人間性の下でのその反映的具体化は、知性や倫理として、
有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、(否定反応も後者の一種な為に不可避な)これらに帰属がない現象を、
それらに帰属がある現象(帰属に修正余地がない、つまりは、受容に値する現象)へと修正する働きになる。



なので、こうした刷新を実際に果たすべく、以下を押さえましょう。


過去に対する過大要求過小要求(現在に有る無いを過去への肯定否定に反映させたり、過去に妄信的に同一化したり)は、所謂テキスト解釈問題であるけれど、対人(対人間)の傾向にもなり得る。

逆に、課されてる条件下での最善以上のものは求めないし、その最善以下であれば修正が必要な状態と見なす、
代替不可能な内外事情にのみ応じてる主体像(理想を割り引く程度に過不足がない現実像)との近遠を、自他への肯定否定と整合させる(余裕がある時の消費や投資の優先度に反映させる)、

これら対主体方針の採用は、場の上に立ち上がってるものと場の疑似でない固有性との間の齟齬(場の性質変化への反応の鈍さ込み)だけを否定する有り様をも期待できる。


同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化が機能してるなら、

利己利他を個々具体とする抽象具体関係構造に関する実力不足(抽象化具体化が不十分)な対他者であれ、
具体化精度に鈍感(局面次第性を無視して一般化する傾向があるなど)なまま加工
(嘘や演出も、反動反発はもちろん、解決原理の上限化前の生まで含まれる次善の策も込み)の過不足問題に取り組む実力不足な対加工であれ、

防げるはずなので、
抽象化具体化の不十分なものを正当化する為に、その正当化を妨げるもの(冒頭で言う移行や通底化の働きかけを含む)を矮小化する反応への対策として、
そこが機能してる人をできるだけ増やし、矮小化圧力を下げる必要がある。



注、

局面次第性を無視して一般化する傾向があるなど、具体化精度に鈍感であるから、

反動反発(妄信と絶対値的に同じで囚われてる)に過ぎないものを、次善の策
(余裕や実力がない等の局面によって要請されてる場合に限り肯定されるもの)以上の何かとして扱ってしまい、
常識が時を経て形骸化してます的な事態を齎すのだと思います。


分かりやすい例で言えば、割り振り原理(場の整合基準)になってるものをその疑似化してる部分もしてない部分も込みで、
社会について否定し、かつ、個人(内面世界で割り振り原理になってるもの)について肯定するという、社会的なものへの反動反発は、

逆向きの反動反発と同様に、疑似化部分を削ぎ落してる(都合を受容に値する状態へと持っていってる)事をもって両者が肯定される存在尊重世界への道を断つ、
いらぬ飛躍を抱えるもの同士(知性や倫理がその働きを矮小化されていなければ、いらぬ飛躍除去の対象になるはずのもの同士、

言い換えると、帰属の修正でなく帰属の操作に知性や倫理を転用してる形に陥ってるという意味で、次元設定自在性という人間性を生かし切れず、逆に人間形式に振り回されてる不自由状態の反映物同士)の上下論であって


(自身に対するいらぬ飛躍除去が機能してれば、その有り様は、能力に対してであれ可能性に対してであれ、代替不可能な内外事情にのみ応じる主体像と整合的な獲得喪失の結果のものなはずであり、

社会に対するいらぬ飛躍除去が機能してれば、割り振り原理、つまり、場の性質がそうした有り様の集積としての多様性から成ってる状態に不断に近づき続けてる、
当然、そうでない類の多様性許容は、スペクトラムの位置によらず形骸化扱いで修正対象になってるはずです)、


冒頭で見た前者的発想(場から受ける整合を拒否するかしないか的発想)の域を出ないわけですから
(井の中の蛙的状態からの脱却に伴う再整合を、前者的発想をもって矮小化してる理論すらある)、

何らかの問題解決に際して、反動反発に過ぎないものを本筋かのように持ち出すのは、後者的発想の否定、
つまり、対象に関する抽象具体関係構造の像(実力や理解)の上限化(抽象化具体化の不十分さの解消)の放棄でもあり、


余裕の有無によらず上限化が断たれてる実力(できないや失敗が受容に値しない状態であり続ける事態、
上で言うところの、より確からしいものが取って代わる運動性を反映させた具体化ではない有限性形態、
言い換えると、形骸な生であり続ける事態)の現れと見なして良いと考えます。

そしてもちろん、上の例で言うなら、社会と個人の対立構図を場の性質と見て、その場の性質に単に合わせてないだけである反応も、
構造的に同じもの(知性や倫理がその働きを矮小化されていなければ、いらぬ飛躍除去の対象になるはずのもの同士の上下論)と考えます。



注2

整合についても、場の疑似でない性質に合ってるかどうかの話(内実次元)をしている
(いらぬ飛躍の除去具合の差異が取り出される場を用意できてるとは言えない状態で、文系知性や倫理が捉えられてしまう現状を、
先に見た競走の問題、つまり、ドーピングの金メダルのような、場で問われてる差異の取り違えの結果の茶番な位置付けと同一視するなど)ので、

合わせた結果の有り様(表層次元)が秩序立ってるかどうか(そういう表層形かどうか)を問題にしているわけではありません

(場の性質次第なわけなので、特定の表層形を支持する話にはなりませんし、
内実次元を無視した硬軟論は、具体化精度への鈍感さによって引き起こされる、不当合理と過剰特殊の二択枠組みへの矮小化に思われます)。

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