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4676文字、個人と集団の関係を上下論から解放する方法について、性別という観点を取り扱う際の注意点にも触れつつ

2023-11-001

思うに、個人と集団との間の上下論が内容の主張に対しても、
不当合理への批判にかこつけた過剰特殊の押し通し、あるいは、過剰特殊への批判にかこつけた不当合理の押し通し、

これら表層次元に留まるロジック(内実の確からしくないものを確からしいものかのように扱わせる余地を保存するロジック)に、
知性倫理美意識の機能不全(帰属関係の修正余地の保存)を見る能力を獲得できてれば、取り合わない(疑似二択扱いする)はずです。



ここで、疑似化した個別性が根拠として持ち出されてる過剰特殊な事態を、自身に関して避けてる個人とは、
獲得喪失の有り様に修正余地なさを持たせ、自身の有限性形態について仕方なさを偽装させてない状態を達成してる人、

つまり、代替不可能な内外事情にしか応じない実存と獲得喪失との整合をもっていらぬ特化(いらぬ限定)を防いでる人
(帰属修正は奪うという方向と真逆なので、奪う事態の発生を避けながらの獲得に抑える志向の持ち主は、
奪う奪われる関係によって成り立ってる平和等を疑似解決と見なす対集団の持ち主でもあるはず)であり、


限定を受けてない状態の準備とそれが引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、
これらを抽象化と具体化条件割り出しとして見た時の、これらの上限化の下での抽象化具体化交互反復(展開性)における具体化条件に、
これらの上限化の一種でもある上の実存を据えた歴史展開や思考展開を生きてる人

(同一性と変化性を同時に齎す抽象化具体化交互反復は既にあって、我々はそこに、
抽象化具体化の不十分さ解消状態を修正余地なさの上限とした、帰属修正を持ち込む事ができるだけである中で、

赤ちゃんがそうであるように、情報獲得を通した帰属修正による世界理解の精緻化との並行だろう、問題解決者を呼び寄せるという間接的帰属修正も込みで、
自身に関する展開性について帰属修正を上限化させ、この上限化をもって解決状態とし、その状態を紡ぐ事が将来有り様の望ましさよりも優先されてる人、


当然、抽象具体の価値対等の下で具体化精度への志向が機能してるので、フェアを越えてまで自分を助けようとする問題意識の現れ、
例えば、ある状態が続く事への抵抗感の内、その問題意識の反映部分は、疑似問題として捨象対象になる人)でもあると考えます。



この場合、そうした人だけから成る社会は、修正余地のない個々事情の集積でもあるので、
表面上どう見えようとも(罰を受けてるように見えたとしても)上の実存とはバッティングしていない(個人と集団との関係は修正余地がなく、その時点での解決状態にある)、

逆に、個人と集団との関係がこの内容以外である場合、表面上どう見えようとも(相性が良さそうに見えても)、個人と集団はバッティング関係にあるのだと解しましょう。


(例えば、種の戦略としての性別システムは、出産以降の赤ちゃんとの関係も含んでるのであって、
赤ちゃんとの関係が直接的であるところの女性では、自己の価値が確定してるという前提と世界から実際に受ける扱いとの間に齟齬が生じるという不安定性が、

赤ちゃんとの関係が間接的であるところの男性では、自己の価値が不確定であるという不安定性が、
解消欲求の形で、選抜現象への反応に必ず偏りを与えるけれど、上の実存はこの偏りに修正余地なさを持たせてくれる、

これが全体像として言えるだろうに、直接性や間接性を自身の補完対象として捉える際に解消欲求や特定時空性がどういう形で入ってきてるのか問題はじめ、
性別システムに絡む話は、選抜現象への反応が持つ偏りに対する修正余地のなさ持たせが論点になってないせいで、

上のバッティング解消に繋がらないという意味で形骸であり続けてきたし、結果、人間という種が採用してる形式の一つに我々は振り回されたままでいると考えます。)



実態を根拠にしてない割り振りに対し、実態尊重(市場も民主制も、修正余地のない個々事情の集積である事を保証しない)を上位扱いするとか、

内実の差異を無視したまとめ上げ(例えば、次元設定自在性という人間形式に、その自在性故にかえって振り回されるのを、
局面と着目無視との合致をもって抑えてる程度の差異捨象が、内実の確からしさ偽装に繋がる状況もあるので肯定否定は局面次第)に対し、

包摂されなさ(理想現実関係に対する抽象化具体化の不十分さ解消の対象化含め、
内外性質統合として現象を見た上で両性質の代替不可能化不足を修正余地とする対現象を埋没させてまで、割り引かれない感)に拘るなど、


先のロジックを繰り返してしまうのは、個別性が根拠になる局面で、個別性の差異を捨象したり、
疑似化を最小化してない個別性を根拠にする(実質、個別性が根拠になってない)様を、

場と整合してない低い具体化精度として評価する事ができないから(そう評価しないパラダイムによって、
帰属修正が対内実で働かない証拠である先のロジックを繰り返すだけの文系権威でも、
影響力を保持する一方で、知性倫理美意識の働きを修正しないで済む事態が続いてる)なわけなので、

以下の理解を知性倫理美意識の評価に先立たせましょう。



通用してる領域の広狭と確からしさとの相関は第一原理(肯定も否定も保留もこれに依拠してる為に逃れられない)であり
(これにしか頼らないというところまで知性倫理美意識の働きを遡らせてるなら、
内実の確からしさも検討対象になる為、その検討の埋没に等しい先のロジックから成る表明は遡ってない証拠と言える)、

通用が行き渡ってる状態はその表層形によらず受容に値し、有限性(内外境界発生)の下での通用が行き渡ってる状態(その時点での解決状態)は、
限定を受けてない状態の準備とそれが引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、これらの上限化に他ならず、


理系的局面(個別性が根拠にならない局面)では、同種の他との差異要素の捨象を用いた抽象化具体化の不十分さ解消が、
文系的局面(個別性が根拠になる局面)では、同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化の不十分さ解消が、

その上限化に相当する(上の準備の極限が真善美だとすると、有限者にとって解決状態とは真善美との合致ではなく、割り引きの最小化に過ぎず、
上の準備を理系では数学、文系では哲学と解するとしても、真善美をそれぞれ前者捨象、後者捨象で具体化したものの獲得試みに過ぎない)けれど、


その上限化が内容でない、したがって、少なくともどちらかへの軽視や不問が含まれてる(この意味で安易さを内包してる)理想現実関係を前提に、例えば、政治や芸術を語る
(場の疑似でない個別性との整合具合とは関係なく形式有り様について語る具体化精度軽視が見られたなら、後者の上限化への問題意識の欠落が疑えるし、

また、常識を特定時空性に合わせる前後という枠組みで捉えてない結果として、次善の策の居座り的な事態が起きてる等では、
成立自体の重視にならざる得ない余裕のない局面かどうかとは関係なく本筋への割り引きを許容してる云々というより、前者込みで欠落が生じてる)

などが影響力持つ者にも許されてるのは、その上限化をもってプラトンアリストテレス的な理想現実関係を乗り越える試みが、
理系でしか果たされてない(理系はガリレオが果たしてくれた一方で、文系は方法的懐疑の内容からデカルトの時点で上で言う遡り、
ひいては、文系的上限化も可能だったのに、未だ諸々の権威が乗り越えのネックになってる)からに他ならない。



注1

自分が自分である限りこうならざるを得ない、と言える為の条件とは代替不可能な内外事情にしか応じない実存として十分生きてきた事だとすると、
条件を満たしてない段階では、自分にはこう見える的なニュアンス含む言動を見せた時点で、
仕方なさの偽装であり、負わされるに値しないものを何らかに負わせてる形が生じてると言えるのに、

その条件を満たしにいく事と、同種の他との共通要素捨象を軽視してる既存の文系空間の価値体系に自身を合わせ込みにいく事
(例えば、権威に対するそのような態度を生きる事)とはバッティング関係にある。


注2

既存の国語教育における理解力についての誤解は、文章の書き手が持ってる価値観の井の中の蛙性に関する、
少なくとも質的側面(各自の緩和上限からの乖離具合)の把握の欠落に相当してる


(量的側面には、情報によってカバーできる領域が広くても生かし切ってない、狭くても生かし切ってる、という観点は含まれてない事から分かるように、
質的側面の把握は、各自の条件の差異によらない評価を可能にする平等性の達成でもあって、

この平等性の欠如は、書き手時空と読み手時空の差異が大きいほど顕著になる、読み手基準による断罪か書き手基準への不問肯定かの二択へと理解力を矮小化するテキスト解釈問題への、
対処不能を意味するのに、質的側面を把握する能力がなくても理解力が十全扱いされてしまう点である)とすると、


代替不可能な内外事情にしか応じない実存ではない状態での真善美や無限者との対峙は、
修正余地のない有限性形態からの乖離の分(真善美や無限者との間に生じてる距離を、有限者性に帰属してるものだけに限る事に失敗してる分)だけ対象を過剰に割り引いてしまう

(本文で言うロジックは、有限性の責任にできない各自の責任部分であるこの乖離をどちらも保存してしまう、
言い換えるなら、Aであるという時点で内外境界線が生じてるように、与件扱いせざるを得ない有限性と向き合う事はできても、対有限性に質的側面を持ち込めない)、


これと同じ問題系として、世界に対する書き手の対峙有り様を見るのに必要な、
同種の他との共通要素の捨象(これへの内外事情のさらされ具合という問題意識)を、

既存の文系空間が軽視的に扱ってる(そもそも、理解も実力も、対象に関して持ってる抽象具体の関係構造の像であり、
この人はこういう感じの人、といった印象を覚えるだけでも我々はその関係構造踏まえた原理抽出をしていて、


抽象化や具体化条件割り出しに際し上の捨象を機能させられなければ具体形パターン網羅に対して開いていようとも、
文系事象に関するその像の確からしさ上限化は無理なのに)という事情にまで、原因は遡れる。


注3

抽象化具体化の不十分さ解消(帰属修正)を、その一種である代替不可能な内外事情にしか応じない実存を具体化条件に具体化し続けた結果の、
帰属修正の得手不得手(例えば、理系者文系者の別)は修正余地がない(ご都合主義的ではない)わけだけれど、

この有限性形態への修正余地持たせは、対内実に関する帰属修正なので、対内実に対する帰属修正の機能不全は、個別性が言い訳にならない。


注4(投稿用の冒頭予定)

保守性で最も有害なのは、既存の文系教育や文系学問が持つパラダイムとの整合を保持する知的保守性であり、
特定集団の実態を尊重するか、個人の実態を尊重するかの二択に話を矮小化するなどして、

実態に対する疑似化部分除去(状況立脚であろうと内面立脚であろうと個別性を言い訳に個別性に帰属してないものとの関係を正当化する余地潰し、
対象についてのこの意味での正当化が生じてる具合の把握込みな理解に必要となる前提)の方向性を埋没させ続けてる


(当然、その種の正当化が混入してる政治的言動や存在性発現系活動もまかり通るなど、
肥大化してる現実によって理想が割り引かれてる理想現実関係に疑問が持たれず、受け手側のその鈍感さが修正機会を奪ってるとも言える環境を齎してる)のもそれだと解しましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。