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ドーピングによる金メダル的な茶番を、主張や感情の選抜、ひいては、知性や倫理の位置づけに対し許してる文系空間の有り様によって、我々が負わされてるものへの対策

2022-11-002

我々が外界から負わされてるものの中で最も有害なもの(いらぬ特化を防ぐ事によって脳へのインストール程度を抑え、余裕があれば修正を働きかけるべき対象)は、

いらぬ飛躍の除去具合の差異が取り出される場を用意できてるとは言えない状態で、
主張(対問題での理想と現実のバランスのとり具合込み)や感情、ひいては、文系知性や倫理の位置づけが、
展開される状況(に疑問を覚えないレベルでの負わされ)と思います。


言わば、ドーピングによる金メダルのような、場で問われてる差異と取り出してる差異とが一致してない茶番な位置付け作用の下に、文系空間が展開されていて
(文系空間が言わば、理科の実験で条件設定に失敗してる子どもの時から実力が変わってない的事態にあり、

仮説を確からしくする能力が上限化されてない、つまり、より確からしいものが取って代わる運動性が阻害されてるこの空間に染まってるにもかかわらず、
いらぬ飛躍除去の働きを矮小化させてない知性や倫理を持ち合わせてるかのように振る舞ったり扱われたり、

染まってる状態の正当化の結果として、文系知性や倫理の矮小化を防ぐ状況改善といういらぬ飛躍除去の働きかけ、
恐らく、具体化精度への問題意識を文系域でもデフォルト化する内容のそれの方を矮小化する形になったりと、
帰属の修正余地潰しへの厳格さが要求されてない事を意味する様相を呈していて)、


当然、政治や経済にもこの歪み(表層形は同じだけれど内実の確からしさに違いがあるものの間に扱い差が事実上ない、という状況の常態化は搾取可能状況に他ならない)は反映されてるわけです。


もちろん、ある何かができるのとできないのとに対し、その内実が確からしいかどうかを問う観点
(優劣に対する、代替不可能な事情の反映なら肯定するという同じ条件を付けた存在尊重、

ちなみに、それは、個人と社会なり国なりとの間の同尊重と共に、優劣を軟硬への優劣に置き換えるだけで質的に変わらない仕事などの、ハイデガーに関わる戦後哲学の刷新に必要、
これを認めるなら、通念的教育観の獲得感覚はその刷新阻害)

を付随させなくても、内実不問が表層形の共通性を利用した帰属の操作に繋がらない為に問題ない局面もある、というに過ぎないのに、局面次第性と関係なく付随させない

(ある関係が見出される時とそれとは別の関係を用意できる時との間でも、たとえそれが、因果関係の否定であれ対立関係の軟化であれ、話は同じ)。


対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像(実力)は確からしいか、内在事情や外在事情に対し存在と引き換えとは言えない要素にも応じる生のまま存在性発現に取り組んでないか、

これら観点を持たなかったり機能しないまま表現について語る(投資対象の主体に質を見ない為に投資で稼ぐスタイルが、
必要な変化に対する反応の鈍さや小手先の対処が懸念される、利権で稼ぐスタイルとの間の、不当合理と過剰特殊の二択枠組みに留まってる有り様に通じる話)。


こうした言動でも権威を持ててしまう(したがって、対象にせよその評価にせよ、最もいらぬ飛躍のないものが金メダル的扱いを受けるわけではないので、
場から受ける扱いを検証実験の結果と同一視するとして、仮説でしかないところの行動原理が改悪フィードバックしか受けれない的)状況を作ってもいます。

(搾取可能状況に染まってる為、言動が搾取可能状況の維持か着せ替えにしかならないのに権威を持つ件に対して、有害だと思う人を増やしましょう。)



例えば、対象を不当合理として糾弾し過剰特殊を選ばせる、あるいはその逆である言説を知的権威が繰り返す、という事態も、
そのどちらにもいらぬ飛躍が含まれてるので選ぶに値しません的な指摘が(可能であればいらぬ飛躍を取り除いた像の提示と共に)都度発される空間であったなら、生じないはずです。

近代始点では科学の在り方や国家の権威や個人の精神を、宗教から分離させるという反動反発も、次善の策として肯定される(局面と一致してる)にせよ、

未だに不当合理と過剰特殊の二択(理系的処理の領域侵犯と内実不問な個別性との二択)
の形に現象解釈を押し込むだけ(その二択的構図を不当合理と見なした過剰特殊化込み)で何かを成し遂げた気になってしまう人が、教育を受けた期間によらずいるのは、

余裕があってなお次善の策に頼り続ける過保護、常識が時と共に現実との齟齬を大きくしようと刷新されない的形骸化、理想か現実にいらぬ割り引きを与えてしまう過不足な加工(抽象化や具体化の不十分さ)、
これらを許さない(いらぬ飛躍扱いする)だけの具体化精度への敏感さを、文系空間が要請してないからでしょう。



文系空間が、場から受ける整合を拒否するかしないか的反応を発想傾向レベルで許してる、
つまり、新しい具体形パターンの登場と同時に、一旦抽象次元に遡って具体化条件を付し直すという、抽象化具体化の不十分さを縮減する反応を、
余裕があってなお割り引く事を許してるわけですから、

対象に関する抽象具体関係構造の像(実力や理解)の上限化(現実の複雑さに、より通用するものへと修正する働き)を、空間が阻害してるようなものですし、

そもそも、理系でのその上限化(抽象化や具体化の不十分さの解消)に必要な、同種の他との差異要素捨象への厳格さは、客観化をはじめ教育を通して獲得可能なのに、
文系でのそれに必要な、同種の他との共通要素捨象への厳格さはそうではないという事情があって、

2+3を10とか100と言い張る、存在と引き換えの要素以外も込みで根拠にする(自由とか皆の為とか言い張る)、これらの同列化の不在と、
形式論理学で満足する論理観から成る、過剰特殊と不当合理の二択枠組みに縛られてる地平が正当化される関係で、
変化を拒む利権社会よろしく、哲学者であろうとその二択枠組みの外側を、つまり、いらぬ飛躍除去を矮小化してる側がしてない領域の方を、矮小化してきた形です。

(したがって、対文系での自分でいらぬ飛躍を見出し取り除く能力は教育では養成されず、
主張や感情の選抜も茶番であり続けてるのに、そうではないかのように振る舞う事になってしまいます。


個人的には、局面と着目無視との合致による過大反応過小反応抑制の下での振る舞いを、
対他者や対流行等で展開する平等観や自由観の獲得促しを小学期から働きかけないせいで、

処理能力鍛えや暗記法確立等と相まって、量的知性に留まってしまい、個別性の内実からいらぬ飛躍を取り除いてくれる後者捨象の必要性を、理解できない可能性を疑ってます。


ちなみに、理性を局面に合わせる整合能力と捉えた場合に、林檎も蜜柑もまだ見ぬものも数えられるとか、美味しい林檎も不味い林檎も林檎は林檎だとか、そうした理系的捨象による普遍通用性を想定すると、

上の平等観や自由観はカント的になり、不当合理として糾弾し、感情の類を生命的なものとして内実不問で選ばせる、つまり、過剰特殊を選ばせるという先に見たパターンが生じ得ます。

同種の他との共通要素の捨象によって取り出される、雨が降ろうが槍が降ろうがそれがそれである限り持たざるを得ない、存在と引き換えの要素という意味での普遍通用性を、
場の性質に要求し、場に置かれるものにもそれとの整合を要求する、という抽象像の、

具体形として局面の話もあり、内面世界の話もある、という抽象具体関係構造を持つ事を、
分離の成功体験によって強化された、不当合理と過剰特殊の二択枠組みにより阻害してるわけなので、
近代性によって理解を矮小化される事例であり、未だに知的上層にも見られる典型例と思います。)



逆に言うと、後者捨象を用いた後者的反応を発想傾向レベル(具体化精度への問題意識化の現れ)で持つよう要請する場
(いらぬ飛躍の除去程度の差異が、その要請の内容をもって取り出される場)へと文系空間を持っていく事ができたなら、


実態を正当化する事でそれを損なうもの(実態を具体化条件と見て、その具体化精度の不十分さを修正する、
受容に値する具体形へ持ってく働きかけ込み)を矮小化(帰属を操作)し、切り捨てる実態主義の残酷さ
(場の表面の汚れを拭うだけでは取れない、内実に含まれるいらぬ飛躍の分に相当する不当さ)を持つ、例えば、市場や現象学が、

資本主義的や存在論的に展開されたものと、それらへの反動反発でしかないもの
(独善的や通念的な望ましさの押し付けなり、受容に値する状態へと持っていく前の都合や事情を満たす介入なり、
いらぬ飛躍を内包する救済像の点で反発先と変わらないもの)とで成る対立構図からの脱却すら、

可能(疑似化が要請される局面もあるに過ぎないのに、局面次第性を無視した一般化を、
少なくとも、対内実に関して繰り返す知性、つまり、良くて実態主義止まりの理解力からの脱却も同時に可能)でしょうから、


その移行を具体化精度への問題意識の下に具体化(もちろん、内在事情外在事情次第では消極的態度ともなる)しましょう
(移行前の産物の、脳へのインストールに関しても、
代替不可能な内外事情にのみ応じる主体像、言い換えるなら、後者捨象を用いた抽象化具体化交互反復から成る歴史展開を経た個別性への志向を、獲得喪失の具体化条件とする事で、いらぬ特化を防げる)。

ご支援の程よろしくお願い致します。