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我々が歴史を上手く紡げない原因(人生であれ、世界有り様であれ)についての考察

2022-12-003

例えば、その人が悪いとか、親が悪いとか、教え方が悪いとか、特定の制度が悪いとか、社会が悪いとか、そもそも世界を成り立たせてる原理が悪いとか、

そうした主張も、現象の帰属関係を指摘する帰属修正行為なわけなので、形の上では帰属修正でありながら、帰属の操作に鈍感
(帰属の修正が本分と言える知性や倫理の機能不全の原因)である為に、主張に冤罪の側面が含まれてしまってるケースもある、というだけの対象として捉えるべきでしょう。



問題はそうした形骸状況(指摘に対する批判が単なる矮小化であるなど、帰属操作ひいてはいらぬ飛躍に鈍感な者同士のやり取り込み)が、
理系においては防がれてる(客観視レベルの個別性捨象は小学期から期待できる)のに対して、

文系では野放しになってる(フェア志向が客観視と同列化されてない以上、それらを個々具体とする抽象次元としての、局面と着目無視の合致も、
当然、文系知性と倫理との間の表裏関係の内実としてのその合致も、期待できない)点と思います。

(確からしい状態と実際の状態との乖離への糾弾が、支配的な権威の利権を揺るがすものであったが為に、その権威の立脚元の名の下に断罪され、乖離の弊害の責任がその名に擦り付けられる構図における、
糾弾側にも断罪側にも学問はなり得るわけですが、この野放し問題に関して、文系学問は断罪側に見えます。)



例えば、市場や民主制に対して、実態を反映させるスタイルという意味合い以上の何かを持たせるのは、

実態主義(表層次元のいらぬ飛躍除去に着目させ、内実次元のいらぬ飛躍を通させる形なので、
表層形断罪の次元で生きてると、負わされるに値しないものを負わされてる状況に気付けない)への対策を埋没させる点で有害であり、

存在と引き換えの要素以外が含まれてるものを含まれてないものかのように扱わせる帰属操作
(内実不問によって可能になる搾取)に敏感であれば、そのスタイルと対策とはセットであるはずですが、


しかし、能力なり情報なり可能性なりについて、獲得喪失を代替不可能な内外事情にしか応じない主体像と整合させるよう求めるのでなく、
むしろいらぬ特化を気にせず選択肢確保にがっつく生を強いさえする(自由平等が前者と結びつく道を閉ざす)教育

(フェア志向欠如という、帰属操作に鈍感な文系知性や倫理の証拠と言えるそれの解消具合でもある、そこの整合具合を見ない実態主義止まりの対象理解が、
不十分なものとして扱われず、修正されないまま教える側にも回れる為、何らかに詳しくても帰属操作、ひいてはいらぬ飛躍の検出に難があるという実態主義的有り様の、再生産サイクルが回ってる既存の文系教育)

と地続きである文系空間の現状において、対埋没込みの対策のデフォルト化は期待できません。



ここで、その対策を、この場合は場の性質に反映される個々事情(主体の内在事情外在事情)に対する、端的には同種の他との共通要素の捨象による、
長期的には、具体化精度(問われてる差異の取り出し)を最大化させた検証結果のフィードバック
(文系的には同種の他との共通要素捨象を用いた具体化抽象化の不十分さ解消)を内容とする具体化抽象化の交互反復の形への落とし込みによる、場の性質からの疑似化部分除去とするとして、


この解釈の下では、抑えられているいない失わされているいないといった、内在不問外在軽視とその反転形から成るよくある枠組みの下でしか欲望を捉えてない人は、
自身の欲望に、搾取側面(存在と引き換えでない疑似化部分を許してる分だけ生じてる)込みの形でしか持てない上、奪い合い世界の構成要素としてしか扱えない、という矮小化を施してる事になる

(ちなみに、局面と着目無視の合致を内容としてない理性、場の疑似でない固有性の発現保障を内容としてない管理、
そうした不当合理を肯定するか、それとも不当合理が悪いという話にかこつけて、場合によっては不当合理を仕立て上げさえして内実不問な個別性保障を通しにいくか、
どちらにせよ先のミスディレクションでしかない二択の構図は、


近代以降、同種の他との共通要素捨象への厳格さ要求がない状況での近代科学の成功、という文理関係の歪さによって二択性が強化されてる為、
冒頭の形骸状況の近代パラダイム的な現れであり、近代の外に一歩も出てない現象解釈の産物と見なせる)。



拡張すると、固有の有限性形態(何がどれだけできてどれだけできないか、欲望がどの方向どれだけ強いか弱いか)が、代替不可能な内在事情外在事情にしか応じない主体像の反映であってやっと、
負わされるに値しないものが実態の名の下に受容を強いられる状況から逃れられる、

さらに、実態が反映されてない類の搾取構造と反映されてる類の搾取構造の二択からの脱却でもあると解せば、
同対策は、実態との距離に関係なく、一律的権利の類(お金をその方向に徹底させるとか、各国なり各文化なりに同等の資格を持たせるとか、救済なり物質なりの得る資格を普遍化するなども射程)を、
機能させる条件でもあるとの推測も可能に思われます。


そして、その射程に、
言語を使える(主語の切り出しや主語からの切り出しにその解消を求める言語像からの乖離は、その人の主題との付き合い方における疑似問題や疑似解決に囚われてる程度と重なる)、
内面世界での固有の重視軽視体系を随時更新できる(他の場との間に、言わば林檎を数えると蜜柑を数える的な、抽象次元を通した個々具体の関係構造確立問題がある)、
次元設定自在性(捨象の精度や維持を対問題に持ち込めるという人間性)が備わってる、

こうした能力も入るとすれば、もはやその対策は、生の形骸化阻止(生への受容に値するだけの内実の付与)であり、
世界の現有り様が人類の無数の対問題の集積である以上、世界有り様の形骸化阻止でもあるわけです。



逆に言うと、先の不十分さ解消を積み重ねれば良い(解決と見なせば良い)だけなのに、我々が歴史を、
受容に値する状態の連鎖でないという意味で、上手く紡げない理由(何が悪いのかという話)は、

その不十分さ解消を解(他方の切り捨てや内実不問なバランスを、したがって、不当合理と過剰特殊の二択を、否定する際の方向性)としてない理想現実関係の産物である理論群
(プラトンアリストテレス時点でその関係は、主語述語問題に先の言語像からの乖離を固定させる疑似化を引き起こしており、

カントヘーゲルニーチェの理論は優劣問題に通用してない、つまり、受容に値する非対等性有り様ポイントを提示できてないと後に判明してる)が影響力を持ってきた過剰権威、


加えて、先の解消に関して生じる偏り(理解や実力は、対象に関して持ってる抽象具体関係構造の像でしかなく、井の中の蛙状態の判明は常にあり得る中、
有限能力の事情であらゆる対象に深い理解や高い実力を持つ事はできず、内在事情外在事情の反映されたそれが生じざるを得ない)に、

先の主体像が反映されてるほど、その偏りは帰属の修正余地がない現象である、つまり、受容に値する、と解する認識観や実存観の不在

(扱われ差異を、主体なり属性なりに固有の困難への対処に関して、暴走してなければ許容する態度や、暴走を抑えるべくその主体像を引き受ける方向性と関係なく、
無くそうとしたり創ろうとする有り様を、自由観や平等観に反映させてしまうのもその不在故と疑える)、


これら(限定理由の確からしさ向上による限定前後での確からしさ保存の、現象受容における論点化を、
例えば、次善の策に関するそれがなければ、時空事情に合わせた加工の過不足ない変遷は扱えないのに、埋没させる知性や倫理の使い方)、

有限という前提の下でより確からしいものが取って代わる運動性にしか頼ってない有り様からの乖離の証拠と言えるものを、スルーしてきた点にあるとの推測が可能になるはずです。

ご支援の程よろしくお願い致します。