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現時点(2022.6.1)で予定してる今後の方向性について(自由や平等に必要な理解に関してなど)エリート肥大化問題は続き

2022-6-001

自由には、有限の与件性の下で通用領域が最大化されてる状態イコール自由の上限、という理解が必要。
平等には、非対等性自体に対する否定は、非対等性の肥大化を歪みとして見た時のその符号反転、という理解が必要。

さらに、自由と平等は、囚われてない状態を、主体を起点として対内的観点で捉えたか対外的観点で捉えたかの違いでしかない
(自由の上限は、非対等性の肥大化阻止の内容も持ってる)との理解も必要と考えます。


上で言う上限は、有限の与件性(内外境界の登場不可避性)と有限性の代替不可能化(代替可能な要素を削ぎ落す事による疑似でない有限性の取り出し)から成る、引き受けざるを得なさに言い換えられ、
主体としてそれを体現してるのが、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像であり、
その主体像は、内在場と外在場において割り振り原理になってるものに対する、代替不可能化への支持とも言い換えられる、そう考えます。


横柄に振る舞うお客さん(お金を出す側等の上位的立場)に対し、その場その場における本質的でない要素を捨象できない人(着目無視が的外れで判断の選抜が信頼できない人)として扱う、この種の環境が、
例えば、虚業実業問題(投資的振る舞いや卸売り的振る舞い)の健全化も可能にしてくれると期待しますし、

この非対等性肥大化阻止の構造は、自己価値なり自我なりの肥大化を抑える対自己にも、
自然や世界や神の理不尽さへの反応を、あるいは、自然や世界や神への人間の横暴を、抑制的にする付き合い方にも重なると期待します。


リベラルもリバタリアンも上で言う上限と関係がないのは、理想を割り引く程度の過不足除去が論点になってない枠組み、
つまり、理想切り捨てな理論面と現実切り捨てな実践面を、カントもニーチェも採用してる点から明らかに思われる。

(そこの過不足は、理想か現実が負わされるに値しないものを負わされる、という不当な扱い現象の発生を意味してる為、
不当な扱い現象の受け手対象が限定的、という通用領域の狭い井の中の蛙な倫理、抽象化が不足してる倫理を、リベラルやリバタリアンは採用してる形。)

機会の平等や結果の平等といった概念は、着目無視の設定を場の疑似でない固有性に即させる秩序
(何の差異を無くすかは場次第という理解)から遊離して持ち出される現状では有害
(割り振りが場に、ひいては、引き受けざるを得なさに帰属しない為、負わされるに値しないものの負わされ事態が生じる)。


同種の他との差異要素を捨象するか、共通要素を捨象するかの選択が同遊離状態にある現状
(近代以降の世界は、前者の文系的局面への領域侵犯と後者の埋没が特徴で、
それぞれリベラリズム、リバタリアニズムの問題点と重なるように思われる)では、

理想が割り引かれたものとしての現実、というプラトンの提示像への解答として、
有限の与件性の下での通用領域最大化が果たされるように、抽象化具体化が展開された結果の割り引かれ(有限性)なら否定しない、という反応を採用しようとも

(プラトン以降の哲学者は現在に至るまで採用してないけれども、理系ではガリレオ以降、事実上採用してるようなもの)、文系ではその反応は形骸化してしまう。



つづき

近代パラダイムの下では文系は、抽象化具体化の精度最大化を論点にできない。
為に、高精度の実験の結果を仮説にフィードバックする的展開を期待できない分、異端審問的側面が入ってしまう。
また、引き受けざるを得なさに帰属してる限定しかない状態からの乖離把握を期待できない分、対常識や対パラダイムはじめ、枠組みインストールがいらぬ特化や反動拒絶になる。

つまり、文系での質的理解力の埋没の原因は近代パラダイムであり、解決には001で言う理解が必要。

001で見たように、ある主体像への志向欠如と非対等性の肥大化は等しい。
したがって、既存の教育はエリート(情報や能力や可能性を取りにいった結果の上位者)の肥大化を許容する国づくりに等しい。
(ポルポト事例はエリートの肥大化問題の符号反転。)
引き受けざるを得なさへの帰属という内容を知性や倫理に求める文系改革党の存在意義は国づくりレベルでも十分認められる。

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