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搾取の発生を抑えるのに必要と思われる事(平等への希求の形骸化パターンを避けつつ)

2022-8-003

有限の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、この両者に帰属がある状態は帰属の修正余地がないので、
場が自身のその状態を保障してると言える時の、場に置かれてるものが受けてる整合(具体的有り様やポジションの規定)も修正対象には当たらないと言えます。

したがって、各人の内面世界が上の状態を保ってる時の価値付けの偏り(例えば、覚える欲望)の有り様も、
局面が上の状態を保ってる時のその偏りの表出形も、社会が上の状態を保ってる時のその偏りの表出形が受ける扱いも、
負わされるに値しないものを負わされてる事態とは無縁であると見るべきでしょう。


逆に言うと、搾取は、帰属の修正余地のないものとあるものという意味で、内実の確からしいものと確からしくないものとが区別されてない時に可能になるわけです。

平和への希求すら、内実の確からしさ差異が問題になってないなら、帰属の操作(負わされるに値しないものを負わされてる存在の発生)を含んだ達成試みに十分なり得るのであって、
お金等の所在の偏りへの非難、さらには、平等への希求であれ、帰属の修正が先立ってない倫理は形骸と見なすべきです。



ところで、近代以降の世界は、同種の他との差異要素の捨象(理系的捨象)の領域侵犯と同種の他との共通要素の捨象(文系的捨象)の埋没、というパラダイムに縛られてる為、

文系事象に対して同種の他との共通要素の捨象に十分さらされているいない(つまり、冒頭の状態に持っていけているいない)の区別がされてきたとは言えません。

認識場の性質の疑似化を許してるとか、認識主体の固有性が代替不可能な内外事情にしか応じない主体像の帰結でなくても気にしないなど、
自身の主観に対してすら、内実の確からしさ差異を見ないまま思考を展開する人でも、
文系では知的上層になれてしまう、知的権威を付した主張を通せてしまうので、

文系的局面において知的権威は搾取の現場であり、搾取可能状況を支えてる、これが過言でないわけです。



自由に関する議論を見ても分かるように、哲学者でさえ未だに内実の確からしさ差異を無視した主張に疑問を持たない、したがって、単に表層の洗練が進むだけの知的枠組みの君臨を許していて、
もちろん、ヘーゲルやマルクスも、内実が確からしいならどんな表層形でも肯定される、という態度ではない為、搾取を支えてる側です。

実際、抽象重視(ヘーゲルは少なくとも、統合対象を個々具体と見た時の、具体化精度を重視する知的状況を齎さなかった)と、
その表層形反転である具体重視(ニーチェやラッセル込みのヘーゲル以降)との対立構図、

つまり、抽象具体の上下論でなく、抽象化具体化の交互反復を歴史性としつつ、
抽象化具体化の精度が最大化されてれば(文系的局面では同種の他との共通要素の捨象が必要)、
展開が進歩という表層形をしていようといまいと肯定する立場を採らなければ、進歩や保守という表層形である事を利用した搾取を防げません。


同様に、場の疑似でない固有性の発現を損なってない点をもって形式を肯定する立場を採らなければ、
経済や政治における特定の形式である事を利用した搾取を防げません。

市場や民主制に対する肯定否定の内容を、場の実態(この場合、個々事情の集積)を割り振りに反映させる形式として優れてる一方で、
場の実態と場の疑似でない性質(冒頭の状態)との乖離に対しそれら自体は無力である点
(ハイデガー後期を含む現象学に対する肯定否定の内容と同じ構造)とする事もできません。



なので、搾取の発生を抑えるべく、次の二点を前提に持つ人を増やす事により、
近代的思考力(文系事象に関する理解を冒頭の状態に持っていけない、つまり、現状可能な上限からの乖離といういらぬ勘違いを抱えてしまう理解力)の持ち主が、
過去の遺物とされ、影響力を文系的局面に関して持てない状況へと持っていきましょう。

ご協力よろしくお願い致します。

局面と着目無視を合致させる事で生じる捨象に、含まれてるはずのものが反応の方に含まれてしまっていたら、知性や倫理が形骸化してる事例として扱う。
理系的局面では同種の他との差異要素の捨象を用いて、文系的局面では同種の他との共通要素の捨象を用いて抽象化具体化を展開し、どちらの局面であるかの把握には後者捨象を用いる。

ご支援の程よろしくお願い致します。