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3204文字、文系事象に関する思考や議論を試みる際に、欧米文系の水準をどう乗り越えるかについての考察

2023-6-003

有限の与件性の下での有限性の代替不可能化は、有限性を受容に値する状態へと持ってく働き(与件性を装われてる事態の解消)なので、

有限性の代替不可能化(限定理由の確からしさ上限化をもって、限定作用に伴う確からしさ低減を補填する通用量保存)を論点としない態度
(それ以外を問題や解決と見なす有り様)は、受容に値する状態への志向が形骸化してる現れ(安易な受容拒絶を自他に負わせる生の現れ)であると、

したがって、有限性故に真善美と有限者との間に生じてる距離(真善美に対する加工)を、その有限者の有限性が代替不可能化
(有限者を具体化条件として見た時の具体化精度最大化が確保)されてない段階で許容する相対主義も、

真善美との間に生じてる距離自体を修正余地と見なす(有限性自体を否定する)絶対主義も、
安易に受容する生がそうした形で具体化してるに過ぎないと言えるように思います。



そもそも、肯定も否定も保留も、通用領域の広狭と確からしさとの相関を踏まえた選抜結果
(論理も、通用が行き渡ってる状態を保存したまま表層形変転させてるつもりな処理でしかない)なわけで、

競走の観点に薬の効き具合や副作用無視具合が含まれてしまってる的に、
確からしさ判定(選抜込み)の確からしさが低いものを高いものかの如く扱うよう、強いたり強いられる事態を避ける為、

その相関を何の差異について持ち出すか、という着目無視設定自体(次元設定による限定化や具体化の作業自体)へのその相関の適用に対し生じてる阻害を、極力抑えているかいないかが、
自他の振る舞いにおける論点(修正余地の有無、すなわち、受容に値するしないを判定する際の基準)になるべきでしょう。

(仮説更新のような確からしさ向上と見なせるものも、単なる意味合いやニュアンスの変遷のような確からしさ向上とは見なせないものも、展開それ自体は抽象化具体化の交互反復であり、
論理にせよ歴史にせよ、抽象化具体化の精度が最大化されてる部分については冒頭の志向が機能してるとの位置づけに、つまりは、受容に値する展開であるとの位置づけになるので、

例えば、ヘーゲル弁証法系のように統合対象の具体化精度を無視する歴史像を肯定してたら、その時点で、展開を受容に値する状態へと持ってく原理の不在が言える為、
それを肯定してる人の対論理における自負は、林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的な事態と解せるはずです。)



問題は、教育やパラダイムのせいで、もっと言うと、知性や倫理や美意識に権威を付す働きが近代性から未だ脱却できてないせいで、そこの阻害を除去できなくさせられてる点です。

実際、客観情報というものに、個別性が根拠にならない局面に際し、同種の他との差異要素捨象を主観に対して施しつつ、先の相関を持ち出した結果、それ以上の意味付けが、

また、主観情報というものに、個別性が根拠になる局面に際し、同種の他との共通要素捨象を主観に対して施し(主観の個別性への疑似化除去、厳密には、その人の内外性質に対する個別性抽出を、
その捨象用いた抽象化具体化の交互反復に拡張し、仮説としての個別性に可能なだけの検証を反映させてる形へと持ってき)つつ、先の相関を持ち出した結果、それ以上の意味付けが、

与えられてしまって(局面と着目無視との合致という論点も埋没してしまって)いて、この事態と近代性、
つまり、文系的局面(個別性が根拠になる局面)での個別性捨象(同種の他との差異要素捨象)や個別性内実無検討(抽象化具体化の精度最大下での交互反復の結果と実態とのズレ許容)を、
科学の在り方や個人の精神に関する分離の成功体験によって強化してしまってるパラダイムとが重なってるわけです。



例えば、理性と感情の関係が未だ、代替不可能な外在事情内在事情にしか応じない実存(ひいては、同種の他との共通要素捨象用いた具体化抽象化)をその内容としてないのも、
文系的局面での個別性捨象と個別性内実無検討との対立構図に、そこの関係が落とし込まれてるからなわけですから、

社会性なり管理なり自由なり、その類に関する思考や議論は、試みる前に近代性との付き合い方を受容に値する状態へ持っていかないと、
試みたところで受容に値する結論には至れない(疑似問題から疑似解決に至るだけ)と解するべきでしょう。


(ちなみに、局面と無関係に明晰さや曖昧さを重視する、したがって、局面と明晰さ曖昧さスペクトラム上のポイントとを合致させるつもりのない哲学形式は、場を尊重する事についての原理を持たない為、

平等を肯定的に語っていても、場の疑似でない個別性に即させる整合という秩序像の言い換えである、
当然、局面と着目無視の合致に伴う捨象の意味でのフェアを、越えて自他を助けない救済像も、越えて許容や忌避をしない対非対等性も包含してる、
場の疑似でない個別性の下の平等という冒頭の志向が機能してる平等像、つまりは、受容に値する平等像を支持してる事にはならないし、

そもそも、主語を切り出す、述語を切り出す、意味を切り出す、といった言語的選抜に際する先の強いたり強いられたりを防ぐ力がないと考えます。


とはいえ、プラトンアリストテレスの時点で主語述語関係については、理想現実関係に対する解釈を反映させた理解があるわけですから、
割り引かれる前後構造についてのプラトンやカントによる提示以降のどこかで、理想現実関係に対する解釈が、

冒頭で言う絶対主義相対主義の同時否定であり、理想か現実かの上下論の否定でもある、抽象化具体化の不十分さ解消を、その関係の受容条件とするものへと文系においても修正されてれば、
言語に関する切り出される前後関係へのその反映をもって、上の防ぐ力の論点化も期待できる以上、受容に値する状態への志向を伴う言語使用の事実上の不在は、

場の性質の疑似化除去を論点とする倫理への無理解という同倫理使用の不在が、内在場や外在場の上に立ち上がってるものに対する表層形のみでの断罪によって埋められてる状況、
分離という次善の策の居座りや分離されたものの特性から、余裕有無に相当する局面差異への非尊重と文理に相当する局面差異への非尊重が言える近代性を、乗り越える手段として不適格な上の哲学形式の権威化、
内在的問題解決スタイルの自我と外在的問題解決スタイルの文化との間の、あるいは、無意識と注力的問題解決である意識との間の関係が、先の実存やその拡張としての抽象化具体化交互反復をその中身としてない事態の許容、

これらと共に、ガリレオに相当する文系者の未出現に帰される話にまとめてしまえるように思います。)



そして、理系的局面での厳格一致(理系域全般での同種の他との差異要素捨象用いた抽象化具体化の交互反復の確立)の成果踏まえた、文系への領域侵犯とその単なる反動
(欧米の振る舞いを乗り越えようとする欧米内外の既存の反応、ただし、獲得喪失の有り様を主体や場の個別性に即させるべく、個別性実態の疑似化具合を検討する方向性除く)を許す事態齎した、

近代性における文系的局面での局面と捨象対象との不一致、という側面(例えば、
同種の他との共通要素捨象用いた抽象化具体化に関する十分不十分差異への鈍感さを、知性や倫理や美意識に浸透させてしまう既存の教育に含まれてるそれ)を、
大した理由なく受容しないとの内容での有限性の代替不可能化の試みは、上の実存の採用に他なりませんから、

採用してない人(例えば、既存の欧米文系の権威)による文系事象に関する思考や議論は、
形骸化してる(不当合理への批判にかこつけて実態主義を押し通すか、実態主義への批判にかこつけて不当合理を押し通すか、

どちらであれ疑似解決な二択縛り地平に誘導させられ、閉じ込められてる自分の知性や倫理や美意識に対し修正余地を覚える事なく展開される)とも解せるように思われます。

ご支援の程よろしくお願い致します。