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ニーチェ系譜はじめ、静と動の対比枠組みを踏まえた主張が、取り除く対象を誤解してるのも、引き受けるべき加工についての理解を、プラトンやカントの示した分離問題への正答としてないせい

2019-11-001
ニーチェ関連のスレへの投稿内容


弱者の内実(フェアアンフェア)を問わない救済(表層的な善行)は、
左派はじめ、宗教性の有無によらず今なお主流です。
少なくとも、キリスト教での非攻撃性の推奨における問題点(攻撃性の歪化があるにせよその原因)を、
その推奨と連動した弱者(偽装含む)救済での上の不問に見るなら、
保守や消極性に対する革新や積極性は、静に対する動に当たりますから、
静と動の対比(動性への阻害物の排除)の持ち込み(ニーチェ)は核心を突けてない形と思います。

思うに、静から動へ(逆も然り)も含め、反動的な解決センスの産物に疑問が持たれないのは、
場に合わせる合わさない(相対絶対)の対比でなく、場の本質にのみ合わせた有り様の採用、
場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる処理(負荷テストの実証次第で強者扱い)、
それらを解決行為とする方法論が不在だからで、
欧米(現主導者)での不在の理由には、引き受けるべき加工についての不理解に加え、
奴隷解放の問題意識も含んだ内在不問外在軽視な自由観(着目差異は局面次第な為、二元論自体に罪なし)、
同種の他との差異要素の捨象特化な知性観(共通要素の捨象は埋没、局面に合わせた両者の使い分けなし)、
欧米に特有なこの二つが想像されます。

前者は、プラトンやカントの示した分離問題(特に、対象を加工なしに掴まえられない)への解答でもある、
現象は内在の性質と外在の性質が合わさったもので、両性質が代替不可能である程確からしいとする現象観、
ひいては、内外分離(有限性)を前提とした、いらぬ飛躍のない内外統合で有り様を導くスタイルの、
欠如を意味します(感情の表出でもイメージの展開でも、局面の把握内容と合致させる作用の不全が問題)。

そのいらぬ飛躍の除去を、抽象化と具体化条件(抽象物が置かれる場の性質)割り出しの最大限追究、
場の本質と着目無視(捨象作用の保存による次元設定)との合致配慮、この二つの相補性から成ると捉え、
歴史性(局面に応じた形に過去や現在や未来が切り出される前のもの)をその最大限追究の巨視化に当たる、
仮説実証間のような、抽象と具体の行き来(より確からしいものが取って代わる運動性の実体)と解せば、
上の現象観において静と動は相対的な見た目の差異に過ぎず(静的であろうと行き来はある)、
その対比は、着目する事で歴史性におけるいらぬ飛躍の有無の問題を埋没させかねない有害な枠組みである、
との理解も可能になるはずです。
つまり、ニーチェ系譜はじめ、静と動の対比をもって何かを解決しようとする事態が生じるのは、
カントに対する正答の不在(有限性の与件性への否認を意味する、分離構造の無化試みもそれを助長)故、
そう言えると思います。

また、代替可能な要素を削ぎ落とす能力に関わる後者は、
科学(同種の他との差異要素の捨象の最たる成果)の絶対化やその反動、といった事態の原因でもあります。
有限存在は有限性の代替不可能化にのみ責任を負えば良く(代替不可能な有限性に責任を負う必要はない)、
仮説の通用領域(確からしさ)の広狭への敏感さや厳格さ(知性や感覚への誠実さの実質)からくる、
実在非実在の不確定さを、代替不可能な局面事情による加工の結果に限って確定扱いするのも、
認識の有限性に関するそうした処理(先の最大限追究)である、そう認め、
かつ、無限(確からしさそのもの)もしくは現有限を越えるものと有限との関係正常化を宗教の本質とし、
その正常化を理想を犠牲にする程度を条件上の最小に抑えつつ現実を成り立たせる処理が持つ構造に見れば、
有限者(捨象のタイプは局面の要請によるべきで、タイプ次第では認識は科学と整合)の責任は、
信仰と矛盾しないはずです。

いずれにせよ、弱者救済で問題となるのは、既存の構造や付け込まれる類の非攻撃性や種々の依存を、
保存する根拠、つまり、誰かの不当な不利益回避や利得の根拠にされてしまうケースです。
なので、その場その場の本質(問われるべき事)に即した扱い(損得や着目無視、役回りの割り振り)への、
支持(フェア)と整合的な有り様(有限者の責任)を対弱者、対強者に先立ち自他に求め、
加えて、ある場での価値なり優劣を他の場(性質変化含む)に越境させない(越権の原因除去)、
可能性に閉じない(具体形パターンの網羅程度は性質把握の精度に関わる)、
これら配慮による、傲慢と過剰な抑制(ルール順守や謙虚さ)の反動構図からの脱却が図られる程、
(個人や国や種の)強者と弱者、両者のアンフェアな振り分けや位置関係も、他方をくじく有り様も、
抑えられるはずです。
反動的な解決センス(二元論自体への転嫁含む)が過去の遺物な時代をまず目指しましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。