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文系は現状、例えば、これではAだから駄目だと言った時のAが、 引き受けるだけの根拠を持っていようといまいと関係なく話を進めるレベルでも上層になれる

2021-8-008

有限性(内外境界)は与件、という前提には、限定や加工を受けてないものはないという要素も含まれてるように思いますが、

(AはAである、これも文脈という場に前者が置かれた結果の加工物として後者がある点で、後者がA以外である時と同じであり、
同種の他との差異捨象、という処理加工が次元設定の段階で織り込まれてる理系的局面もあるに過ぎないはず)


その前提の下で限定は望ましいものでないと捉えてるならば、
限定を受けてる、かつ、通用が行き渡ってると見なせる、この状態が理屈上選ばれると考えます。



なので、踏まえてる限定条件が代替不可能化されてる事をもって選び(負わせる負わされるが上の状態にあると見なし)、
通用が行き渡ってないものに対する否定反応(解決反応込み)も、修正なり距離取りなりを挟む事で選ばれる状態に持っていってるだけ、


(限定される前後という関係性、及び、そこの行き来に対する、具体化抽象化の精度最大化問題だけがあって、

その問題は、実験の精度が低い場合の、仮説の確からしさ向上具合から考えて、
より確からしいものが取って代わる運動性を、有と無の間の内外境界も含む有限性に先立つ、無限性として見た時の、
その運動性が阻害なく展開されるような有限性への志向、という形なので上の状態にある、

そうも見なせるはず)


この文脈を持たない問題意識はどんなものであろうと
(認識論系であれ存在論系であれ、その人が社会の有り様との関係をどう規定してるのであれ)、
矮小化されたもの(井の中の蛙状態に由来する過大評価過小評価の側面持ち)であり、


そこから振り出される反応は、通用領域の狭い(確からしさの低い)行動原理の産物と言え、
負わせる負わされるに値するという意味での肯定性を持ってないのだと思います。



また、空気を読む事自体は日本に限らないにせよ、極日常レベルで生じたり場を荒らす事に否定的だったりが相対的に言えるとして、


相対的に逆が言える日本以外においても、いじめ問題なりリーダー選抜問題なり、
自己との遠近を対象位置づけに過剰に反映させる主体が権力を持った結果、自己にとっての都合の良し悪しから成る枠組みに沿うよう、自覚の有無によらず、周りに強要する展開は生じる以上、

場に合わさない(外在場から内在場への立脚反転)という方向(単なる分離)に振れたところで根本的な解決はないと捉え、
分離した双方から代替可能要素を削ぎ落した上での再統合の方向(これを意味する主体像、恐らく下で言うそれの採用)が目指されるべきと考えます。


(採用してる主体が増えるほど、場の深掘りされた性質に即したポジション規定や具体的有り様規定を支持してない権力行使に対する、生じにくさや修正可能性も高まるとすれば、

後者方向は、各場の代替不可能な固有性への帰属をもって妥当と見た時の、不当な負わされが生じにくい社会や価値体系を目指してると言える形。)



そもそも、ポジション次第で不当獲得が許されるという前提を持ってる
(対自己含む既存の救済観も、フェアを越えて助ける側面を排してない以上、この一種)から、
自身を棚に上げた、その分だけ全体枠が狭まり、井の中の蛙化が起きてる批判反応
(自他整合的である場合に得られる論点の深さを、欠いた結果の短絡反応)にもなるわけで、

最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にしか応じない主体像由来のものに、主体の有限性(理解の限界込み)を抑えてない
(その主体像から乖離してまで能力なり情報なり可能性なりを得る事は、形骸上等な成立達成執着によるいらぬ特化と見なして、有限性を過剰に負ってる事態扱い)、

扱い(ポジションや具体的有り様の規定)が、各場の代替不可能な固有性に即してない
(アンフェアはもちろん、局面次第な問題を局面の性質とは無関係に語る極端さなど)、

これらを文系域の現象に対する批判点としてれば、自己との遠近が対象位置づけに過剰に反映される事もないはずです。



ところで、ドーピング等(問われてる差異の埋没行為)のあるレースよりもないレースの方が、
存在性の演出的発現(この意味では芸術と変わらない)が茶番化してないというだけでなく、帰結として得られた参加者間の関係性は確定的です。


この構造は、外在場か内在場かの違いがあるだけで、感情や感覚、自己意見の選抜(対象位置づけに際する論理展開)にも言えると思いますが、

例えば、既存の権利観に、前者レース的側面を見出せないという意味で疑問を持たない人が、
文系域の何らかのテーマについて確定性の高い結論を導けてるつもりだったとしてもそれは、
林檎は数えられないが蜜柑はできると言ってる構図なわけです。


理解力がその水準
(確からしい内実持つもの持たないものの、恣意的側面をできるだけ剥いだ選り分け原理に対する、埋没の常態化によって、

帰属を操作される余地潰せてるより確からしい別のものが、取って代わるべき段階の理論や有限性形態像しか持てないと疑える、
つまり、対象に言及してる形をしてようと、対象に帰属してない要素も含まれたものが取り上げられてると疑えるレベル)でも、


文系域の権威が持ててしまう時代(持ててしまう結果の保持や棄却)を終わらせる為にも、

上で言う埋没の阻止に関する安易さは、表面上成立してるだけに過ぎない非確定的な段階のものを、
確定的かのように自他に負わせたり、疑問を持たずに受け止めてきた事を意味すると捉え、

また、先の文脈や主体像を自身の為す理解(対象位置づけ反応)に反映させてる人、
自他の為す理解や抱えてる問題意識に生じてる下で言うパターンを、できるだけ取りこぼさず修正形に持ってく為にも、先の批判点を文系的局面では常に問うてる人、

その増加働きかけが重要でしょう。



例えば、これではAだから駄目だと言った時のAが、
局面に即してるかどうかや、上で言う主体像なり精度最大化な抽象化具体化の反復なりの帰結かどうかで話は変わるのに、
そこら辺無視して話を進めてる的パターン(この例は冤罪発生の現場だけれど、もちろん、肯定系でも話は同じ)を、


まかり通らせてきたこれまでの文系域(の権威は、
帰属の修正されてないものを、されてるものかのように通す働き、つまり、負わされるに値しないものを負わせる、選ばせる働きをしてきたと言え、
肥大部分を捨象した問題意識に限って持たせるなど、上で言う運動性を阻害しない有り様へと修正されるべき状態にある点)についても押さえつつ、


上で言う運動性の阻害に相当する、論理展開(通用が行き渡ってる状態を保存しつつの表層形変転)の形骸事態として、
そのパターンをできるだけ多くピックアップできる(無視しなかった場合の全体整合形を思い描けるまである)人、

少なくとも、それが、自身の抱える問題意識(欲求込み)に振り回される(低通用状態に置かれる)のを、
抱えるだけの十分な根拠のない(自身に固有という要素を埋没させてる)肥大部分を、重視軽視判断のかく乱要因として削り取る事によって抑える為に、必要だと認めてる人を増やしましょう。




以下、投稿用の縮小再構成版


例えば、これではAだから駄目だと言った時のAが、局面に即しているいないなどの、引き受けるだけの根拠を持っていようといまいと関係なく、話を進めてるパターン(もちろん、肯定系の例でも話は同じ)に対し、
知的上層さえ疑問を覚えずスルーしてしまう、

この問題が全人類的な話として現状ある
(この問題に直接取り組む事により、それが各場の性質を受けてどのような姿で現れてようと悪化しようと、根元から抑えにいける)、
そう解すとして、個人的には、

自己との遠近を対象位置づけに過剰に反映させる主体が、権力を持った結果、自己にとっての都合の良し悪しから成る枠組みに沿うよう、自覚の有無によらず、周りに強要してる展開、
これをいかに防ぐかの話と方向性は同じでないかと期待します。

ポジション次第で不当獲得が許されるという前提を持ってる
(対自己含む既存の救済観も、フェアを越えて助ける側面を排してない以上、この一種)から、

これらを文系域の現象に対する批判点としてれば、自己との遠近が対象位置づけに過剰に反映される事もないはずで、
自他の為す理解や抱えてる問題意識(欲求込み)に生じてる先のパターン(論理展開の形骸化)をできるだけ取りこぼさず、肥大部分として修正する為にも、常に持っておくべき観点と考えます。

ご支援の程よろしくお願い致します。