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表層的平等への志向の弊害は自由概念の内容刷新で、表層的自由への志向の弊害は平等概念の内容刷新で、解決可能でないかという話(知的領域の形骸化への対策込み)

2021-10-002

他者(他の生物や自然、さらには、誰かにとっての他者となる自己も込み)の尊重や保障はこれまで、
他者(この場合、人)の抱える問題点(対有限性のぬるさが行動原理に反映されてる部分)を保存する形でしか語られてこなかったように思われます。


(通用の行き渡ってる状態を保存しつつの表層形変転である事が、論理展開や歴史展開を肯定する根拠になっていれば、
有限性を不可避と認める一方で、割り引かれの過不足を許したまま紡がれてる有り様は修正対象になる、

そう想像される為、

理想と現実の安易なバランスを、つまり、抽象化と具体化条件割り出しの低精度を意味する、上で言うぬるさは、
通用の行き渡ってるものを選んでるつもりで選べてない事態を引き起こす、観点設定の失敗やそこへの鈍感さの現れと推測します。)


実際、主体の差異を捨象する内容での対他者は、

例えば、人権で言えば、
次元設定(着目無視の設定)自在性という人間性に振り回されてる事態までも保障する、判断に際する観点設定の限定通用状態を(余裕の有無によらず)放置しつつの尊重で満足されてきた

(包摂による取りこぼしを問題視する系でも、その振り回されは解決の対象でない以上、質的には大して変わらない符号反転でしかない)わけですし、


共有系(得る資格を開く理念を通じた尊重)は、キリスト教の対秩序における理論上の問題点
(立場反転願望や求め続けるケースへの、つまり、それらの点については主体の有り様への、解消する方向のケアがない)を保存しつつ展開してきた歴史
(蓋してるだけの中世における縛りを、解放した近代始点以降もその問題点は保存)を繰り返してるところがあるわけです。


また、限定作用自体を忌避する方向での対他者(ハイデガー後)も、

対象の有り様を本質からの乖離の観点で検討する事自体
(対象の本質把握を、より確からしいものが取って代わる運動性に、つまり、精度最大化させた抽象化具体化の交互反復による確からしさ向上に、乗せているいないに関係なく)を暴力と見なしたり、
社会に見られる体系が絶対性帯びる事態に焦点を置いたりをもって、

主体の内在不問を、尊重の中身にしてるも同然と見れば、当然、主体の問題点は保存されるでしょう。


個人的には、
自然現象に数学を読み取るという、理系における現実側面と理想側面の架橋(どちらを上下とするか議論からの解放)に相当すると期待する、

実存に(同種の他との共通要素の捨象をもって)代替可能な要素をできるだけ削ぎ落した内在事情外在事情から成る像を読み取る架橋まで、
暴力(不当な扱い)と見なす必要はないはず
(むしろ、内実の通用が行き渡ってない、形骸化してる有り様からの、帰属の修正による解放の一環と見るべき)と疑いますし、


主体の為す内在事情への対応も、外在事情への対応も、
内在場外在場によらず、各場の代替不可能な固有性(それがどういうものであれ)を損なわせているいないの観点(評価基準)から、形式や帰結を肯定否定する、
という同じ原理でもって扱ってしまうべき

(林檎は数えられないけど蜜柑はできる的段階で満足してしまうと、内在場の固有性を尊重してるつもりで厳密にはできてない、
つまり、事実上別物を尊重してる形になる)と考えます。



加えて、上の像から乖離してまで何かを獲得する事を、
いらぬ特化(大した理由のない限定化、という内容の不自由)と引き換えの獲得と見なして避ける。

各場の固有性に即した割り振りを自身の都合(ポジションや具体的有り様に関する願望)に先立たせる方針(フェア)、
特に、局面の固有性を損なわせないような着目無視という次元設定方針も内包されてる、上の評価基準の適用を、

対理不尽(それが権威由来だろうと)における、見て見ぬふり(帰属の操作と言える部分まで肯定する妄信系)や大騒ぎ(帰属の操作でない部分まで否定する反動反発系)という振り回され状態への対策、

ひいては、主体の立たせ方(不当な扱いへの対応込みの対外界)を確からしいものにする本筋と見なす、

これらを押さえれば、前者的対他者における問題点保存も解消されると期待します。



思うに、人の描かれ方など分かりやすい例があるので、
文化が各人の感覚や思考の働きに、着目無視の傾向のレベルから、問題解決反応に偏り(有限性の形態)を与えるものの一つである
(反映の結果との間にフィードバック関係を持ってる)事は認めるとして、


その制約性への対処を、単に形式パターンのバラエティをカバーしにいく内容で済ませてしまっては、

人権が現状、内実の限定通用状態(不自由状態)を放置してる尊重に留まってるのと同じ処理を、文化に対してやってる倫理ケースの構造が重ねられる以上、
量的な対応(内実の確からしさ差に反応しない解決像)に留まってると言えるはずです。


しかも、具体形パターンに開かれる事自体は確かに井の中の蛙状態からの脱却(個々具体の再規定に繋がる全体枠の拡大)ではあれ、妄信状態も成立達成に有利という側面を持ってますから、

単純にカバーできてるパターンを増やすだけでは、その前後で、
余裕が有ってなお量志向という、成立達成執着な行動原理自体は変わってないとも言える気がします。


また、過去に見られた、構造への静動反転や概念枠の存在否定、

つまり、有限性の不可避性(有と無の完全一致を否定した時点で、内外境界の発生は認めざるを得ない)という本質的に否定できないものを、
否定してる形なので小手先の対応(表層次元でのこねくり回し)にしかならない、限定作用自体の否定という反動反発

(引き受けるに値するものしないものを選り分けないままの否定、この場合、対有限性での代替可能要素不可能要素の分別の欠如)も合わせて捉えれば、


先に見た、求め続けるケースや立場反転願望への、解消する方向のケアがない点は近代以降も保存されてしまってる、という問題
(表層的平等への志向の弊害は自由概念の内容刷新で、表層的自由への志向の弊害は平等概念の内容刷新で、解決可能と期待)が、
知的領域の問題解決反応にも丸々現れてる、そう言えるように思われます。



逆に言うと、余裕が有ってなお質を求めない成立達成執着な世界
(位置づけを、各局面における可能なだけの確からしさに帰属させられない、不十分な実力でも権威を持ててしまう世界)である既存の文系域、

例えば、経済や政治において今なお、変化の遅速自体を固定軸扱いしてるも同然な人達(場での割り振りに具体化精度を、
つまり、各場の代替可能な要素をできるだけ削ぎ落した固有性と実際に割り振りの原理となってるものとの間の距離を問うてない)は、


場による規定作用(内外の性質統合)の一環として形式(着目無視の設定込み)はあり、
場の固有性が損なわれているいないを論点(先の評価基準の採用を対形式の実質)とする事で、
理系で言えば実験精度に当たる具体化精度を無視した(したがって、通用の行き渡ってるものを選んでるつもりで実際は形骸な)解決像である、妄信と反動反発は同時回避される(そこの二択振り子の外に出られる)、

つまり、具体化精度の文脈以外で形式の話を持ち出したり、持ってるのは、
組織構造や常識における齟齬問題のような形骸化を、問題視してないも同然な為、取り合うに値しない、


こうした理解と整合的な枠組み
(特に、精度最大化された抽象化具体化の交互反復から成る展開を、変化不変化の内実として求める、

認識の対象になり得る全てに対し、取り上げる差異を各場の固有性に帰属させるべく、局面と着目無視の一致を維持しつつ接するという内容を、自由や平等に、
また、妄信や反動反発の側面が強いほど獲得する情報なり可能性なりから質が損なわれる、自己や権威との付き合い方に持たせる、

前者を十代以降、後者を一桁後半の歳から組み込んだ教育)
しか認めない方向をもって、過去の遺物にできるはずです。



冒頭の、誰かにとっての他者となる自己も込み、の部分は、
限定作用自体の忌避の方向での他者尊重の話が下で出てくる事もあって、

値切り交渉で双方が価格を言いながら妥協点に寄ってく的な、量的調整のイメージに近い、欲求や秩序や対人との関わり方をしてる系と、
問題点保存の話との間の関係を、

分かりやすくする効果を期待して書いた側面もあります。

ご支援の程よろしくお願い致します。