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社会が閉塞状況に陥ったとしてもその程度を抑える為に必要だと思う事

2022-7-009

場の上に立ち上がってるものに対して、場の疑似でない固有性の発現を阻害してない
(それがそれである限り持たざるを得ないものの反映という意味で、表層形が存在に即してる)なら肯定し、阻害してるなら否定してる場合

(この時、価値付けは場の存在に、ひいては、内外境界である有限の与件性に、託されてる形)、
形骸化した形式を肯定する事態も防げるはずです。


そこから考えて、上で言う阻害の有無とは関係なく肯定否定してる人(例えば、阻害の有無に関係なく硬軟それ自体を根拠にする人)は、認識枠組みの形骸化に十分には対処できない為、

秩序がその整合作用によって保障してる形になってるものに対して、保障に値するかを検討しないせいで、負わせるに値しないものまで場に置かれたものに負わせてしまってる事態を、
認識場において展開してる(認識対象に対する加工自体、割り引き自体は有限の与件性から不可避)と想像されます。


この点を踏まえ、教育が被教育者の為す対象理解の精度を上げるべく、上で言う阻害の有無(具体化精度の高低)と整合的な肯定否定反応へと被教育者を導いてるならば
(近代性を背景に持つ教育、つまり、分離関係に持ってく事で満足し、分離物や分離元の有り様への内実の確からしさ程度による肯定否定にまでいかない枠組みを背景に持つ教育は、
文系的局面での具体化条件を確からしくする働きを取り込めてない為、既存の教育では理系的にしか導けない)、

その教育は、新陳代謝の過不足(場に即してない状態)を抑えられる人材の育成をしてる事にもなるはずです。


なので、知性や倫理の本分を帰属の修正とし、

何ら限定されてない状態の準備と引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、この両者
(理系的局面では同種の他との差異要素の捨象、文系的局面では同種の他との共通要素の捨象による、抽象化と具体化条件割り出し)の最大限化が、

現象を構成してる帰属関係(もしくは、その理解について)の修正上限に相当するとしてる教育を、


被教育者の見せる帰属の修正処理から帰属の操作の側面を減らす(場の疑似でない固有性と着目無視との合致度を上げる)、
この意味で被教育者の知性や倫理の内実を確からしいものにして世に送り出す責任
(主観に対する上の前者捨象である客観視をはじめ、対理系ではこれまでも果たされてきた)と共に、

教育者に(各々の代替不可能な内外事情によって理想が割り引かれる分は許容しつつ)求める事で、
新陳代謝が機能する社会(閉塞状況の程度を最小化できる社会)へと持ってきましょう。




注、以下、認識枠組みの形骸化放置の弊害の例


例えば、外側が常にあると言うだけでは、たとえそれが哲学的な見解(リバタリアンの根拠として持ち出すなど)であろうと、
表層的な理解に留まってる人の言と見なされて仕方ないと思います。


誰もがより通用領域の広い気がする方を、認識処理のレベルで常に選んでいて、つまり、より確からしいものが取って代わる運動性自体は前提で、

観点なり、主体の有り様なり、その運動性の受け皿(その運動性が置かれる場)におけるその運動性に対する阻害の程度が論点
(例えば、阻害のないケースだけから成ってるのなら、多様性が高くても低くても肯定される)であって、


受け皿に対してもその運動性を可能なだけ働かせてる、文系的局面の場合は、同種の他との共通要素の捨象に十分にさらしてるなら、
阻害が最小化されてる(具体化の精度が最大化されてる為、その運動性へのフィードバックは改悪でない、

つまり、その運動性が仮説と検証との間の関係のように抽象化具体化の交互反復という歴史性から成っていても自身たり得てるし、前提が前提たり得てる)ので肯定される、


この内実の確からしさ差異(この場合、受け皿の存在有り様が疑似性に、自身に帰属しないものを帰属してるかのように扱う形で振り回されてる、
という意味での低通用状態、不自由状態の程度差異を根拠にした肯定否定)に関する理解が、

抜け落ちてる近代的理解力(内実を確からしくする働きを持たない認識枠組み)の産物であると、

言い換えるなら、近代性によって話を矮小化してる事例(認識枠組みの形骸化放置の弊害の例)であると思うからです。


内実が確からしい状態を保存しつつの表層形変転という内容を、自身が展開するもの(思考なり生なり)、展開に関われるものに持たせる事ができない、
これを、通用が行き渡ってる状態(選ぶに値する状態)へと持ってく能力を、対文系で持ててない有り様と解し、
近代的理解力に留まってる事の弊害と位置付けましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。