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3151文字、人間関係に関する問題状態、解決状態について

2024-6-002

帰属修正を先立たせてない人が持つ人間関係像は帰属操作の側面を持ってしまう為、奪い合い世界を脱する
(強弱関係が原理となる為に優勢劣勢有り様の肥大化が不可避な世界から、そこの肥大化の意味での搾取と引き換えでない獲得が可能な世界へと移行する、

言い換えると、優勢劣勢有り様に対しては肥大化の有無を論点とし、割り振りが各場の疑似でない個別性に即してる状態を、
肥大化してないとして目指す)上でのネックは、その種の人間関係像の正当化です。


つまりは、ある行為に対し帰属修正の反映かどうかと関係なく肯定否定する人が影響力を持つ、これが奪い合い世界を保存するわけですが、
実際、文系的事象に対し内実の確からしさを論点とせず、表層形を肯定否定の根拠にする、
したがって、同じ表層形なら内実の確からしさが上限であるものとそうでないものとの差異を、扱い差異に反映させない人、

例えば、優勢劣勢差異が生じてる事自体に反応し、生じてる差異に関する肥大化の有無の論点化を埋没させるなど、
こうした文系的な論理性の欠如と言える事態に疑問を持たない人が、知性倫理美意識の権威に至る事も現状可能です。



有限性(内外境界発生)は与件なので
(有と無の時点で内外境界が生じてる為、少なくとも存在に先立っており、無限性が始点だとすると、そこから有限性がどういう事情で引き出されるかが問題になる)、

代替不可能な内外事情(疑似化部分を剥ぎ切り、取り違えを最小化させた事情)にしか応じない実存
(有限性の帰結でしかないものに対し大騒ぎも見て見ぬ振りもせず、いらぬ有限性からの解放を意味する内容を実存、
置かれてる場に通用させ続けるという存在課題の結果であるそれに、したがって、対存在課題に持たせる方針)と整合させてる行為は帰属修正の現れですから、


ある集団において望ましくない現象が生じた場合に修正対象になるのは、集団の構成員全員に関するその実存との乖離部分だけであって、
その部分のみの修正を阻害する理念(感謝や謝罪といった帰属修正行為も、帰属修正として働くとは限らない)は、

存在するのと引き換えでない要素まで存在に帰属してる疑似化した存在有り様からの実存の解放を阻害してる以上、形骸な対象尊重しか語れないのに加え、
自身に帰属してるはずのものを奪われてる何らかの存在の発生をアシストしてる

(帰属修正余地のない状態を受容に値する状態、さらには、表層形の望ましさによらず解決状態と解せば、
解決阻害であり、この意味での解決とは無関係に理念の満たし具合が基準となる為、集団が問題状態かどうかについて誤認させる)と見なし、その影響力への加担を避けましょう。



自他に求めるのは先の実存である事、および、置かれてる場の疑似でない個別性に即した扱いを受ける事だけ
(自己に対する肯定否定も、他者に対する肯定否定も、同じ基準でないなら確からしい原理の不在を、
つまりは、ご都合主義を、加えて、原理抽出も帰属修正なので帰属修正不全を意味し、

修正余地なさを超えて要求するのは疑似問題なので、要求の上限は帰属修正の上限に等しく、
市場がそうであるように、場の性質を構成してる主体のすべてが修正余地を持たない場合、
その場における場の性質を根拠にした割り振りは修正余地がない為に受容に値するけれど、

先の実存でない他者を先の実存へと促すという修正余地潰しが、先の実存である自己をもって具体化された結果なら、
失敗や延期といった表層形も、否定が生じない地点である帰属修正上限という内実を持ってる)だとすると、


当然、過去の自分や遥か昔の誰かについても求めるものは同じで、この場合、文章を読むという現象(認識場に文章が置かれる事態)も、
読み手書き手双方における先の実存(理想を割り引く程度を最小にしてる現実)とのズレを、修正余地として持ち得るものとなり、
読み手価値観と書き手価値観の間にある表層的差異への大騒ぎや見て見ぬ振りは論点ズレの現れです。


過去も現在も未来も、理想を割り引く程度を最小にしてる現実でありさえすれば良い
(この現実を紡いでる歴史から見た過不足ある割り引きから成ってる歴史は受容に値しない)、

この態度を、内実の確からしさが上限であり、その確からしさを損なってない表層形かどうかを論点とする事で、
表層形自体への拘り(表層形が根拠の断罪込み)を放棄する内容の抽象化(内実不問系の抽象化とは別物)の対歴史での形と位置付けましょう。



ところで、市場の否定のような実態軽視なスタイルは現実との齟齬の受容を泣き寝入り的に強いてくる為、
実態の妄信的根拠化(場の表層の汚れを拭うだけで済ます態度込み)を否定するにせよ、実態自体を軽視する方向でなく、
具体化精度が上限でない時の実態は修正余地があると位置付ける方向を採用し、

具体化精度が上限であるとは場の疑似でない個別性が具体化条件になってる時で、
市場で言うと、需給事情を構成する個々事情が代替不可能的であるほど場の個別性の疑似化程度は下がり、
この時、帰属修正が内容の洗練と、内外事情の取り違え故に合理化すべきでないものまで合理化する帰属操作が内容の洗練とが、区別されてない事態も解消されると解しましょう。


また、明晰さへの固執は、明晰曖昧バランスを局面次第とする態度の否定の意味で実態軽視と見なせます。
局面の性質取り違えの最小化を論点としながら局面に合わせる能力という内容ではない理性概念の重視も、
その内容である理性概念の軽視(フェアを越えてまで自身を助けない方針の下での自身の具体化のフィードバックに対する軽視込み)も、実態軽視と見なせます。

文化について、先の実存の下での問題解決の集積収斂であるかどうかの差異を埋没させる枠組みは、
個別性の取り違え最小化と個別性捨象を、個別性が根拠になるならないに合わせて使い分ける局面次第性の否定
(これ自体が個別性捨象であり、論理を、あるいは、通用が行き渡っているいないに関する感覚を、個別性捨象に特化させた地平に陥る原因)です。


秩序包摂からの離脱の正当化は、局面と着目無視の合致(算数の文章問題を解くだけでも必要)がそうであるように、取りこぼしの発生は場が価値を決める事の一環でしかなく、
場の性質の取り違え最小化(外在性質に関する帰属修正の上限化)の下での発生かどうかという内実差異が論点である

(離脱者の内在場でも話は同じなので、取りこぼしを含む、場に合わせた加工自体の拒否は、
林檎は数えられるけれど蜜柑はできない的な原理不在に留まる為、ご都合主義でしかなく、
都合の反映に内実の確からしさを求めてない以上、奪い合い世界の保存に等しい)とする立場から見ると、

場に合わせると合わさないの対立(相対と絶対の関係込み)になってる時点で疑似問題
(内実を検討する視点を欠き、内実不問な統合が内容の対立解消含め、表層次元に縛られた地平である証拠、言い換えると、文系的な論理性の欠如の現れ)です。


これらから近代後の哲学と見なされてるものに立脚した人間関係像は帰属修正が先立ってない
(競争協調有り様を場と無関係に規定する帰属修正不全は奪い合い世界を脱してないと解する意味での、奪い合い世界を脱してる内容の倫理か、
奪われる側から奪う側への転換を支援してる内容の倫理かという内実差異を、

あるいは、行為に対し内外事情の取り違えを最小化してるという意味で修正余地がない為に受容に値するものかどうか、
行為が受けてる扱いに対し場の疑似でない個別性に即してるという意味で場に対する尊重の帰結なのかどうかという内実差異を、

検討する視点の欠けた、言い換えると、文系的な論理性の意味での飛躍の有無を判断できない有り様の産物)と言えるように思います。

ご支援の程よろしくお願い致します。