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不当獲得の押し通し合いで形作られてきた、不当獲得傾向の裏返しな悩みに塗れてる、この世界も、具体化精度という評価視点の文系域への導入で変えられるはず

2021-10-005

目の前にあるものの実在認識すら、厳密には、通用の行き渡ってる気がする方を選んだ、という処理反応の産物である点を超える事はない上に、


不確定性が有限能力故に避けられないところを、局面事情次第では確定的に扱う(確定的なものとして具体化する)事もある、という二重の割り引き構造が、

限定作用(割り引き作用)自体の不可避性の下でも、抽象化具体化の精度を最大化させ事によって、通用の行き渡ってる状態を保存させる事ができてる、この内実を持ってるとは限らない、


こうした事実が言えるのでないかと想像します。


仮にそう言えるなら、局面事情と捨象対象選定の合致(上の精度最大化に相当する状態)を先立たせてないのに、何らかの実在を疑うのも疑わないのも、

いらぬ飛躍を抱えた形骸状態
(形骸に振り回されてる、通用性を下げさせられてる点は同じという意味で、質的に大差ないのに、表層上は断絶関係になりさえする)と見なせるはずですし、


哲学系に限らず、悩んだり批判するに値するだけの何かが、有るのか、過不足なく切り出されてるのかの判断は、


理系的局面では同種の他との差異要素の捨象次元の維持が、文系的局面では同種の他との共通要素の捨象次元の維持が、
特に、対主観におけるそれらが、確からしい帰結(通用の行き渡った内実持つ位置づけ)を導出する際の前提になってない現状

(近代以降は、前者特化、後者埋没がパラダイム化されてる為、
代替可能な要素をできるだけ削ぎ落した内在事情外在事情にしか応じない主体像から乖離した状態での達成を不当獲得扱いするなど、
内在外在の代替可能な事情は反映させてない像から乖離した有り様を肥大扱いするレベルにまで、近代的捨象観を修正してない限り、

文系域での、その中で持ち出される理系物はともかく、この部分は確からしいものとして扱って良い、といった判断には疑念を持つべき)では、


形骸物に対し中身が詰まってる扱いをしてる形と解せるでしょう。



なので、現状の維持を望んでる人と現状を変えようとしてる人(悪意や恣意保障、浅はかな善意からそうしてるケースも込み)との間の断絶構図にしても、


擁護や批判に、通用の行き渡ってる気がする方を選ぶという内容以上の働きを許してるぬるさが見られた時点
(より確からしいものが取って代わる運動性への阻害が見られた時点)で知性や倫理の不全と見なし、


自身が知性や倫理、ひいては、肯定反応や否定反応を不全なまま持ち出さないよう、
局面と着目無視との合致を、帰属修正(原理の抽出や原理への帰属維持を含む)の基礎に据えてる人

(通用の行き渡ってる状態を保存しつつの表層形変転な展開からの乖離を引き起こす、抽象化具体化の精度不足に、論理や歴史の修正点を見る人)
が増える事によって解決されると期待します。

(前提の通用性向上、通用領域拡大があってなお、つまり、井の中の蛙状態の緩和があってなお、表面上不変な現状維持ケースもあるわけで、
定義やパラダイムなどの枠組みを、精度最大化させた抽象化具体化にさらさない事自体が知性や倫理の不全でしょう。)



ここで、文系知性や倫理の不全の例として、

愛なり幸福なり、その種の概念が、そうせざるを得ない局面事情もないのに、歪んでいるいないの確からしい選別原理の付帯なく持ち出されてる(素朴な推奨から、論説の構成要素まで)、
何らかの名の下に持ち出して、付帯させてれば防げた事態の責任を擦り付けてる形と言えるケースすらあるのに、

修正圧力が生じない、帰属修正(通用が行き渡ってる帰属への差し替え)に関するぬるさ
(通用を行き渡らせる働きが阻害されているいないの差異への鈍感さ)、
もしくは、(神なり正義なり)何らかの名に相当する対象の、実在性や絶対性を否定するという方向に話を持ってく、表層形を反転振り子するだけの解決観、


これらを参考にすると、これまでの文系域が批判されるべき点は、
具体化精度や抽象化精度が論点にならない(一方、理系域は実験精度が追求されてきた)という意味で、内実不問な地平に留まってるのに、通用領域の広い方を選んでるつもり、
という形骸性にある

(例えば、ヘーゲル後の哲学の三つの主流は共に、対ヘーゲルの焦点を、統合対象に対する具体化精度の不問とはしないまま、今に至ってる、
つまり、何らかの表層形反転で話を済ませたままであり、量的な距離に解決を見る点は以前と変わってないわけで、哲学すら古い体質が保存されてる)、

そう疑えるように思います。


(自身の形骸な理解枠組みを形骸ではないものとして振る舞ってる文系者が、
いらぬ飛躍や帰属操作と言える事例を取り上げて批判を展開してたなら、自身を棚に上げてる形なわけで、

同じ構造持つ個々具体から抽象次元に遡り、具体化精度を上げた個々具体に位置づけし直す一連の能力が、
いらぬ飛躍や帰属操作の現象に関して機能しない、
そこの対現象の表裏性から一方が質を欠けば他方もそうだろう、知性や倫理の頭打ち構造が想像されます。)



特に、損得や快不快の内実不問(先の主体像からの乖離具合を質として見た場合の、量的な距離だけが解決対象)な根拠化をまかり通らせてる以上、


良くて、価格を言い合って妥協点に持ってく
(割り振りが内面なり局面なり、各場の代替不可能な固有性を、固有な偏りに即した扱いを、損なってないほど具体化精度は高い、質があるとした時の、量的なだけの調整な)値引き交渉的秩序

(二者の例で言えば、一方を引かせるほど他方の総取りに近づくので、知性や倫理が、他者を黙らせる手段、自身が黙らないで済む為の手段に成り下がりかねない)
にしかならないだろう、不当獲得の押し通し合いとして形作られてきた、少なくとも、それを構成原理の主要な部分としてきた世界に対して、


文系域は保存させてきたし、割り振りに質を持たせる方向へ向かわせる力を持たない、との批判は免れないでしょう。


逆に言うと、
より確からしいものが取って代わる運動性(ここからの逃避も、限定の回避である以上、形としてはその運動性)の名の下に、

それを実質(形骸回避)として可能にする
(抽象化具体化の交互反復による確からしさの確保を、その運動性に等しくする、つまり、論理展開や歴史展開の形骸化を防いでくれる)、

局面と着目無視との合致(局面事情と捨象対象選定との合致)への志向を持ち出す事が、
既存の理念や解決像に先立つ、という方向へのパラダイム刷新によって、


例えば、その合致の話
(政治経済はじめ、場の傾向を主体が構成してる場合の、それを志向してる主体の割合に関する話込み)を先立たせずに、場に合わせる合わさないの観点を持ち出す反応に対して、

場の代替不可能な固有性にだけ合わせる
(代替可能な要素をできるだけ削ぎ落した外在事情にのみ応じる事で、負わされざる得ないだけの確からしさを持たないものに振り回されるのを抑える)という、
精度最大化させた具体化をもって、限定作用の発生(何らかの加工作用は不可避)にもかかわらず通用の行き渡ってる状態(選ぶに値する状態)を保存する、帰属修正試みの、

埋没を齎す、古い体質
(そこの修正具合を質的距離と解した時の、量的距離にだけ解決像や選ぶ根拠を見た上で断罪もしてくる為、先の主体像への、
できるできないの有り様という有限性形態の具体化を精度最大化させる具体化条件だろうそれへの、信頼反応に繋がらない)の現れとして扱う事によって、


文系知性や倫理の不全、及び、にもかかわらず権威を持ててしまう形骸性は、その弊害も含め解決される、
そのように考えます。




投稿用も一応記載しておきます、以下それ。


対秩序については、良くて、価格を言い合って妥協点に持ってく
(各場の代替不可能な固有性に即した扱いから乖離してない程、ポジションや具体的有り様の割り振りは具体化精度が高い、質があるとした時の、量的なだけの調整と言える)値引き交渉的秩序にしかならない

(二者の例で言えば、一方を引かせるほど他方の総取りに近づくので、知性や倫理が、他者を黙らせる手段、自身が黙らないで済む為の手段に成り下がりかねない)、
不当獲得の押し通し合いとして形作られてきた、少なくとも、それを構成原理の主要部分としてきたこれまでの世界を変える、
これを大局として押さえるべきと考えます。


恐らく、変えるには、代替可能な要素をできるだけ削ぎ落した内在事情外在事情にしか応じない主体像から乖離した状態での達成を、不当獲得と位置付けた上で、
損得や快不快を、不当獲得許容したまま(内実不問なまま)根拠化してる有り様では通らない場を広げてく必要があって、
それを妨げてるのが既存の文系域の体質でしょう。


愛なり幸福なり、その種の概念が、そうせざるを得ない局面事情もないのに、歪んでいるいないの確からしい選別原理の付帯なく持ち出されてる(素朴な推奨から、論説の構成要素まで)、
何らかの名の下に持ち出して、付帯させてれば防げた事態の責任をその名に擦り付けてる形のケースすらあるのに、

修正圧力が生じないという、帰属修正(より確からしい帰属への差し替え)に関するぬるさ
(歪みの有無、つまり、通用を行き渡らせる働きが阻害されているいないの差異への鈍感さ)、
もしくは、(神なり正義なり)何らかの名に相当する対象の、実在性や絶対性を否定する方向に話を持ってく、反転振り子するだけの解決観。


これらを参考にすると、既存の文系域が批判されるべきは、
具体化精度や抽象化精度を論点にしない
(他方、理系域では実験精度を追求)という意味で、内実不問な地平に留まってるにもかかわらず、通用領域の広い方を選んでるつもり、という形骸性にあると疑えるように思います。

(例えば、ヘーゲル後の哲学の三つの主流は共に、対ヘーゲルの焦点を、統合対象に対する具体化精度の不問とはしないまま、今に至ってる、
つまり、何らかの表層形反転で話を済ませたままであり、量的な距離に解決を見る点は以前と変わってないわけで、
哲学すら、質的に変わらないという意味で古い体質が保存されてる。)


なので、より確からしいものが取って代わる運動性(ここからの逃避も、通用領域が限定される事態の回避反応である以上、形としてはその運動性)の名の下に、

それを実質(形骸回避)として可能にする、局面と着目無視との合致
(抽象化具体化の交互反復による確からしさの確保を、その運動性に等しくする、つまり、論理展開や歴史展開の形骸化を防いでくれる、局面事情と捨象対象選定との合致)
を既存の理念や解決像に先立たせましょう。



例えば、その合致の話
(政治経済はじめ、場の傾向を主体が構成してる場合の、合致させてる主体の割合に関する話込み)を先立たせずに、場(需給事情等)に合わせる合わさないの観点を持ち出す反応が見られたら、

場の代替不可能な固有性にだけ合わせる
(代替可能な要素をできるだけ削ぎ落した外在事情にのみ応じる事で、負わされざる得ないだけの確からしさを持たないものに振り回されるのを抑える)という、
精度最大化させた具体化をもって、限定作用の発生(何らかの加工作用は不可避)にもかかわらず通用の行き渡ってる状態(選ぶに値する状態)を保存する、帰属修正試みの、

埋没を齎す、古い体質
(そこの修正具合を質的距離と解した時の、量的距離にだけ解決像や選ぶ根拠を見た上で断罪もしてくる為、先の主体像への信頼反応に繋がらない)の現れとして扱いましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。