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受容拒絶(政治レベル込み)にどのような原理を持たせるかについて、個人や国の歴史展開を意識しつつ

2022-4-005

何を否定対象とし、否定反応をどう具体化するかについて、より確からしい方向へと導く教育があるとは現状思えません。
(暴動はじめ、行き過ぎた修正行為に対し控えめに言っても無力な感のあるアメリカリベラル的な有り様と距離を置いてる人であっても、
表層上の対立関係が先行し内実の疑似化程度は事実上問わないという、これまでの権利の用いられ方に疑問を持たないなら根っこは同じ、

つまり、公共の福祉に反しないと見なしてもらえようとも、都合の押し付け含む、疑似化した内実の押し付けが可能となる方向に、自由や解放を見てる点は同じなので、
近代憲法系譜な国の教育には、否定対象や否定反応の選定に内実的確からしさを付与する枠組みが別途必要であると考えます。)


いらぬ限定を抑えるのは、何ら限定されてない状態の準備と引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、この二つであり、
抽象化具体化の精度が最大である時、被限定は最小化されてる(通用領域は最大化されてる)、そう思うので、

具体化精度が最大化されてるなら受容する(拒絶もその具体化精度を最大化させる)という受容拒絶方針が、
個人レベルにせよ国レベルにせよ、その歴史を内実が確からしさ保ったまま紡ぐ(妥当な論理展開と同種)上で必要であると推測します。


思うに、通用の確保(仮説の確からしさ向上のような通用領域拡大も含む)を、代替不可能な内外事情にしか応じない主体像でもって具体化してる主体は、
有限の与件性(内外境界発生の不可避性)と有限性の代替不可能化(代替可能な要素の削ぎ落し)から成る引き受けざる得なさを具体化条件にしており、
自身の具体化について疑似化を避けてる(上の方針を自身に向けてる)と言えて、

能力や情報も、疑似化された事情に応じた獲得はしないはずですし、
上の主体像でない他者や、その他者の振る舞いの集積と言える側面を持つ世界に対しても、
具体化条件が疑似化してる件への否定的反応を、上の主体像でもって具体化(修正を働きかけたり距離を取ったり)しながら付き合う事になるはずです。


例えば、感情の表出形を状況に合わせて変えるにしろ変えないにしろそれ自体は、
内面の性質(内在事情)や局面の性質(外在事情)における疑似化程度(同種の他との共通要素の捨象程度)について何も言ってないわけで、
内面と局面との間の、あるいは、感情と理性との間の上下論的な振る舞いは、上の方針においては否定対象ですし、

外在場を軽視する有り様(市場水準の需給実態と距離が生じる共産主義系含む)や、
外在場にその表層的性質部分込みで合わせる有り様(上の主体像の帰結でない個々事情も需給実態に反映させてる既存資本主義含む)をした政治や対政治、

つまり、場の固有性(割り振りの原理になってる部分)を疑似化から解放する対場原理(文系においてはフェア志向が相当)が持たれてない
(当然、林檎を数えられないのに蜜柑を数えるは十全にできてるつもり的状態を超えられない為、内在場の産物も疑似化除去は不十分)、
したがって、上の方針を持ってない(場に合わせる合わさないの二択な地平故に、
倫理含めて具体化精度が論点にならず、精度差異に鈍感である)事を意味する政治や対政治も否定対象です。


社会レベルでそうなるよう、文系の言動や展開に対して、それは局面の疑似でない性質次第です、それは主体が抱えてる疑似でない事情次第です、判断選抜もフェアな方が結果を負うにも納得できます、
この種の指摘(いらぬ飛躍の指摘であり、引き受けざるを得なさへの帰属要求)が取りこぼしなく持たれる方向に、文系空間や文系教育を変えましょう。
(それら指摘を都度意識してくださいますよう、よろしくお願い申し上げます。)

ご支援の程よろしくお願い致します。