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情報の獲得はもちろん、思考の展開(例えば、悩み)にすら不当獲得の側面の有無を検討するよう、促すような教育が必要だろう、という話

2021-9-005

数を数えるの例で言うと、林檎も蜜柑もまだ見ぬものさえも数えられるのならば、抽象次元は確からしいもの、通用の行き渡ってるものと期待できるとして、


例えば、理系者が実験精度の高い実験結果だけを集める事で、仮説(抽象次元)をより確からしくできたという場合に、
人権軽視などで時代的に審査が通らないような方法での収集まで含まれてたなら、
あえて手に入れないでおくべき情報まで獲得した、不当獲得(欲深さ)の側面がそこにはあるはずです。

(人権概念自体が現状、フェアアンフェアの差異を捨象してしまう内容な為、この事例では、審査等で割り引いたとしてもアンフェアの反映は厳密には残ると見るべき。)



また、多様性の確保や具体形パターンの網羅に際し、形骸物を除去する事で質を確保する、という処理における形骸物が、
前者では実験精度の低さの現れ、後者では自他尊重の欠如なり形骸化なりの現れ、という違いはあれど、

どちらも具体化の失敗であり、後者から見て前者は抽象次元、という関係構造があるようにも思います。


他者尊重だけでなく自己尊重も込みなのは、

この枠組みを体にインストールすればこれができるようになると分かってはいても、
代替可能な要素を削ぎ落した内在事情外在事情のみを引き受けてる有り様としての自身、この意味での偏りをもってしかその枠組みとの関係を持てない
(負わされるだけの根拠が十分でないものからの自己の解放を先立たせてる)、

この種のあえてできない有り様選択も、まとめてしまえるように思うからです。


そして、その枠組みには学校教育で与えられるものもあるし、
できるようになるものの中には想像力の射程距離(想像だろうと、上の有り様と無関係という意味で質軽視な量追求ならば、成立達成への執着の現れと言える)も含まれるように思います。


なので、何かができるできないに、価値を固定するような意味づけが与えられてしまう前に、
引き受けざるを得ないかどうかの選別精度に関わる、上の意味での偏りを獲得しておくに越した事はないはずです。



また、規範なりルールなりが先にあると、枠による取りこぼしが生じるので、それらは事後的(その意味でのケースバイケース)で良い、といった理解は、

上で見た後者的具体化の話と整合的でない(不当獲得が泣き寝入り的に処理される)ように思います。


各場の代替不可能な固有性に即した形式による限定状況は肯定するけれど、生じてる限定がその部類でないから問題だと解するべきところを、
つまり、具体化の失敗の問題と見なすべきところを、

枠による取りこぼし自体を問題にしてる(限定作用自体を忌避してる)という、反動反発による過剰否定
(具体化に失敗してない場合まで否定する事になる)に思えるからです。



そもそも、何に対して通用が行き渡ってると見なすか、行き渡ってないと見なすかは次元設定(差異考慮の枠組み、つまり、着目無視の設定)次第な為、

不当獲得(ひいては、尊重の欠如や形骸化)の正当化(都合の押し通し合戦な世界)に至る、
通用の行き渡ってないものへの行き渡ってる(選ばれるに値する)もの扱いやその逆への対策含め、

通用領域の広狭(確からしさ差)判断についての論点は、次元設定自体の確からしさと言えて、


特に、理系的局面では同種の他との差異要素捨象から成る次元の維持が、文系的局面では同種の他との共通要素捨象から成る次元の維持が、通用を行き渡らせる上での大前提だろうに、

後者の維持前提化について学問界からして認めてない(近代性と整合的な前者の維持への過信が未だ支配的な)現状では、

その学問界の権威妄信に相当する内面化は、後者を認めた上での認識処理へと向かうのを阻害する働きの、
もっと言うと、不当獲得の発生低減を阻止し、都合の押し付け合いな世界を保存する枠組みのインストールと言えるでしょう。



いずれにせよ、形骸を取り除けない(つまり、内実に関して通用を行き渡らせる事のできない)実力段階での思考なり感覚なりの産物は、
形骸を含んだまま紡がれていった帰結なわけで、

代替可能な要素をできるだけ削ぎ落した内在事情外在事情から成ってる状態(認識主体は認識対象にとっての外在場)が維持されてる場合に限って、内実の通用が行き渡ってると言えるとすると、

形骸を含んだまま紡がれてる事態は、引き受けるだけの、応じるだけの根拠がないものに反応し続けてる有り様、つまり、過剰に振り回されてる有り様を意味してる為、

そんな産物の生み出しを自身に許してるのなら、自分で自分を自由状態から遠ざけてる生に他なりません(他者に勧めるべき生には見えない)。


なので、形骸を取り除きつつ紡いだ思考や感覚による判断に留めるよう導く事を、

妄信と反動反発の(対象の形骸部分込みの肯定、形骸部分以外込みの否定という、符号が逆なだけで振り回されてる点は同じな両者の)同時否定の推奨が見られない、
形式の組み上げを、各場の代替不可能な固有性の発現具合の観点から評価するよう指導(着目無視の設定を形式と見れば、上の推奨と事実上同じ)してないなど、

文系域(個々主体の抱えてる事情による割り引き自体ではなく、代替可能な事情による割り引きに、根拠の確からしさ減耗を見るべき領域と推測)に関しては事実上してないと言える

(文系的局面での、後者的次元維持の下で為す抽象化や具体化条件割り出しの能力を育ててない時点でそう言える)既存の教育は、


例えば、取り上げる(選択反応)に値するだけの確からしさを持たないもの(後者的次元維持によって捨象されるはずのもの)について悩む
(誰かの主張の採用含め、解答の与え方も確からしさが期待できない)のを、

自分で防げる人の育成に無関与であった点に対し、

その種の悩みに実際苦しめられた事のある人達
(理解力に関わる認識論の解決に先立って存在論的テーマを持つ人なども、そこには含まれるように思われる)から、

全面的ではなくとも責任の一端を指摘されて当然に思われます。


また、自身の内面世界で為されてる処理については形骸を許してるのに、外界に見られる形骸事象
(例えば、組織構造や常識に対して覚えたズレ具合)に文句をつけてるのだとしたら、それは、

自分は大した理由なく殴って良いけど他はダメと言ってる形、林檎は数えられないけど蜜柑はできると言ってる形となる
(原理不在なのに恣意的でないつもり、十全にできてるつもりを意味する)ので、


繰り出す批判に、受け止めるだけの内実や過不足のなさ(実質)をできるだけ持たせたいなら
(持たせる程、受け止められなかった場合の責任は相手持ちになる、つまり、結果がどうあれこちら的にはできるだけの事をしたという形に近づいてく)、

選ぶ(外界が受容)に値する通用の行き渡ってる状態へと主張なり反応なりを持ってきたい
(負わされるに値しないものを負わせてくる側面を、外界に認めるにせよ可能なだけ小さくしたい)なら、


内面世界での形骸発生を許してない状態がまず目指されるべきだろうに、教育がそれを支援してこなかった点も

(代替不可能化させた個々事情との整合を促してるとは言えない、という意味で質軽視な獲得と言える、つまり、余裕のある人にとっては成立達成執着な生に誘導されてる形の、能力付与で満足してる点と共に)、

対環境の支援の形骸性として、糾弾対象に含めてしまって良いように思います。

ご支援の程よろしくお願い致します。