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2666文字、何をもって近代以降の文系教育を乗り越えてると言えるかについて、存在像が表層と内実のどちらに立脚してるかの観点から

2023-11-004

個々の存在にとって存在する事と負わされたり負わせたりは不可分であると認めるとして、

引き受けない、引き受けさせる、といった形自体を問題にし、解決を覚える発想と整合的な、
(戦争の契機にもなり得るところのパワーバランスへの志向も込みで)優勢劣勢(存在しやすい存在しにくい)という表層形の有り様を、
肯定否定にそのまま反映させる(内実が確からしくても否定され得る)表層立脚な存在像と、

内実の確からしいものしか引き受けない、引き受けさせない、という方向に当然向かうだろう、
内実の確からしい優勢劣勢は肯定し、内実の確からしくない優勢劣勢は否定する内実立脚な存在像があり得るはずです。


内在不問外在軽視な通念的自由観は(内在軽視外在不問な反転形も含め)前者の証拠、
代替不可能な内外事情にしか応じない実存方針は、個別性を獲得喪失の根拠にしてる、

かつ、根拠の内実を有限(内外境界発生)の与件性、より確からしいものが取って代わる運動性、この二つから成るそれ以上遡れない状態へと持っていってる為に、
帰属操作(これが生じてる状態は、帰属修正によって関係に確からしさを持たせにいく余地がある)の意味での奪う奪われる現象に与してないので、後者の証拠です。


得る資格を開くだけの平等(奪う奪われる関係の立場反転や包摂拒否の根拠となるケース込み)での満足は前者の証拠、
管理者立場(内面世界では認識者)とプレーヤー立場が、場の本質の下の平等(場の疑似でない個別性に即した整合)に対する、
それぞれの立場なりの責任を負う(他方に対してこの責任を負うよう要求できる)秩序方針は後者の証拠です。


対真善美に拡張すると、不当合理への批判にかこつけて過剰特殊を押し通すロジック、あるいは、過剰特殊への批判にかこつけて不当合理を押し通すロジック、
少なくともどちらかに対し受容的な知性倫理美意識であれば前者の証拠、どちらに対しても個別性へのその内実不問性をもって拒絶的な知性倫理美意識であれば後者の証拠です。

通用領域してる広狭と確からしさとの相関から、優勢劣勢の差異に振り回されてる前者よりも、振り回されてない後者の方が確からしいと言える点、
近代は、科学の在り方を分離させた成功体験によって文系空間での不当合理(個別性が根拠になる局面での個別性の差異捨象)が、
個人の精神を分離させた成功体験によって文系空間での過剰特殊(個別性が根拠になる局面での個別性への不問)が、強化されてるパラダイムと見なせる点

(ここから近代以降の世界には、局面と着目無視との合致が理系的局面でのみ機能するという意味での中途半端さの弊害、
方法的懐疑において上の相関を根拠に否定を展開しておきながら、内実不問な自我の根拠化に留まり、
上の相関を組み込んだ肯定形の提示をしなかった中途半端さの弊害、あるいは、同種の弊害、これらが内包されてると疑えるはずです)、


これらから、上の両ロジック(対内実を埋没させる表層形反転の二択)に丸め込まれてしまわない(まき散らしに加担しない)方向に導く働きが機能してるしてないの差異を、

近代以降の文系教育(個別性が同種の他との共通要素捨象にさらされているいないの観点、ひいては、対内実での帰属修正について、むしろ放棄させる方向に導いてしまうそれ)
を乗り越えているいないの差異(もちろん、単なる表層形反転をもって乗り越えとする、対内実への視線を欠く発想は、近代の外に出てない)として捉えましょう。



注1(投稿用の冒頭)

科学の形骸化への対策として、同種の他との差異要素捨象の維持、個別性が根拠になる局面への領域侵犯の抑制、
人間的な理由(現時点での技術的限界なり、経済的政治的社会的事情なり)に修正余地なさを持たせる事による限定作用に伴う通用性低減の補填、これらが言えるでしょうが、

宗教にも同種の話があって、特に、理想を割り引く現実が肥大化していたら過剰に割り引いてしまうのに、疑似化の分だけ肥大化してる実存をもって信仰対象と対峙する信仰の形骸化への対策を、
組み込まずに為される宗教肯定(宗教的体験の受容込み)は、不当合理への批判にかこつけた過剰特殊の押し通しであり、

逆に、科学による宗教への批判が上の領域侵犯を内包してると、過剰特殊への批判にかこつけた不当合理の押し通しになると考えます。
なので、下の話(における前者は、欧米文系の疑似学問性、つまり、帰属修正が機能してないのに帰属修正してるつもりという形骸化の原因)の中に対宗教も位置付けましょう。


(ちなみに、特定の限定理由に向き合うだけでは、林檎を数えられないのに蜜柑はできてるつもり的水準に留まってる形ですし、
有限性そのものと向き合おうとしても、実験精度の低い実験結果のフィードバックが仮説の改善に繋がらないように、限定作用に関する個々具体の具体化精度が低ければ有限性そのものへの接近を上限化できません。

これは、内実不問な実存、何ができて何ができないかの内外境界線をはじめとする有限性形態の確からしさ差異の捨象に繋がる、フェアを越えた具体化を自身について避けているいないの差異の捨象などのそれを、
前提としながら能力限界や生死に関して語ろうとする試みに、丸め込まれてしまわない為に押さえるべき理解と思います。)



注2

自分に帰属しているべきものが実際に帰属しているいない、という意味での自由不自由感について、
選ぶ(生を直線と見立てた時の、直線を構成する点としての問題解決の一種で、
通用してる領域の広狭と確からしさとの相関を踏まえた選抜自体は、知覚の時点で既に組み込まれてる)という観点から考えると、

レースの開催は決まっていて大会運営として関われるだけ、という状況で本文における前者は、
贔屓を勝たせる介入に相当し、その役回り像から自由不自由感が引き出されるのに対して、
本文における後者は、選抜結果への帰属修正余地潰しを通して、責任についても帰属修正が展開されてる形と言え、


場や場に置かれるものに帰属してる責任を負わない、かつ、場の疑似でない個別性の保障
(内面世界が場である時のこれは、代替不可能な内外事情にしか応じない実存の追求に等しい)に対する管理者としての責任を負う、この役回り像から自由不自由感が引き出される為、

イメージとしては、本文における後者的平等での管理者立場を、帰属修正が機能してる知性倫理美意識にとっての責任に着目して眺めると、
自由は本文における後者的自由の内容として見える、といった関係が言えるのだと期待します。

ご支援の程よろしくお願い致します。