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厳罰や自己責任、ネット非難等々へのあるべき態度も収めるような、大枠としての話を試みてみる

2020-8-001

責任の持ち出し方問題、権利の付け込まれ問題を踏まえると、厳罰への肯定も否定もある方向に吸収すべきで、
その構造は自己責任やネット非難等への対処も収めた大枠と捉えて良いのではないか、
そんな気がしますし、その流れから、ある捉え直しの不十分さが対リベラルの焦点でないかと疑えてきました。

以下、内容を書くと、影響を与える事について戒めるけど全く与えないわけにもいかないしどうするかとか、
仮説Aの結果が芳しくないから変えてみる的フィードバックに重なるイメージとかから見て、責任は、

選ぶ際の原理として何が選ばれてるか(引き受けるものを代替不可能化させ、過大過小を抑える方法)の話や、
理想と現実(質は不問で成立自体に焦点当てざる得ない局面等)の適切な均衡点から成るラインとしての歴史性
(何かの過去や現在に対しそれ以上咎めないとする際の基準点に相当)に寄せる方法の話にまとめてしまえて、
その確からしい方法と無関係に持ち出すのは弊害ありき(その状態の許容を齎してる仮説が保存されてる)に、
ならざる得ないという意味で、選択の文脈に乗ってるように思われます。

また、人権も、フリーライダー戦略に沿う形で既存の権利をも恣意的に駆使する個人や国が確認される現状では、
使い方次第という時の振り幅が大き過ぎる(社会構成者が負わされる歪みの縮小)という問題を抱えてる為、

能力のそれ含め有限性(内外境界)の与件性から目背けず、悪用(安易な言い訳に使用)もしない態度として、
その場その場の本質(確からしさの差異として反映させる特定差異についての設定から、
応じる必要ない代替可能要素を同種の他群踏まえ割り出し、削ぎ落とした、
引き受けざるを得ない偏りとしての整合対象)を自身の着目無視(次元設定)に紐付けよう
(それによって差異への大騒ぎや見て見ぬ振りを抑えつつ、つまり、場に即した割り振りを実践可能にしつつ、
場に通用してるしてないや場への通用させ方を評価しよう)と配慮する有り様が傾向を担ってる社会で、

言い換えると、フェア志向の傾向持つ
(今この局面では何の差異に着目し何の差異は無視すべきかの問題が核的に機能してる)社会で、
生きる権利を人権の中核に据えるという対処が必要であるように思われます。

以上を踏まえ、厳罰への肯定否定問題の類について考えてみると、
責任という概念や枠組みを形骸的(事実上の無責任)に持ち出す事も、
当然に責任逃れ、罰逃れ、つまり、不当(場に即した割り振りへの不支持)なコスト回避なので、
そのような持ち出し方をする主体が他者に応報を求めた時点で形の上では、
先のフリーライダー戦略採用の主体に相当してしまう点から、

(より確からしい気がする方、より通用性が高い気がする方を選ぶという影響力を常に行使していながら、
何についての確からしさを問うかという限定の仕方、場の用意の仕方についての、
確からしさの差異として反映させる差異を取り出す着目無視設定についての、
捨象のセンスがいらぬ特化を帯びているいないを含めた、差異との関わり方についての、
確からしさは実質不問、という構造にまで厳密には遡るべき話かもしれません)

肯定も、否定(罰逃れ志向主体に都合の良い状況を用意)も、
フェア志向(理想や局面事情等の現実条件の、咎める部分やそれに反応する際の条件の、
取り出しも包含する意味での、内在や外在のそれがそれである限り引き受けざるを得ない性質特定に、
ひいては、抽象物と具体化条件の関係にある両性質の、統合形の確からしさ向上に必要な、
代替不可能要素抽出の精度にも、原理レベルで関わってると思われる)の傾向持つ社会を求める方向に、

(場と齟齬がないという意味で確からしい体系を組み上げたり組み上げるよう要求する前にもしくは並行して、
場の性質を変える事で、付け込まれる隙を体系が持ってしまう事態、低通用状態に対処する方向に、)
吸収されるべきもの(体系の有り様に責任持つポジションにおいては吸収しにいくべきもの)という構造が、
言えるのではないかと疑います。

さらにこの流れから、現実が持つ複雑さに対応できるだけの余裕や実力(抽象具体の関係構造)の不足とか、
人間限界の折り込みとかで、マニュアル(自己判断放棄)対応が次善の策として要請される事があるにしても、
局面事情と無関係にその次元に留まったり離脱したりが防がれるような全体像
(理想と現実の排安易なバランス)の下で、成立優先質不問を捉えておく必要がある、

この種の捉え直しが救済(アフリカ支援の話などは有名であるのに)、ひいては自他の生理解において、
不十分であるが故に、弱者ポジション(偽装込み)の為すアンフェア(引き受けの方針含む)への、
寛容や無責任を修正しない類(場の固有性に即した割り振りを支持してるとは言えない状態での、
割り振りへの影響力行使)の善や正義も固持が可能だったのではないかと疑ってます。

ご支援の程よろしくお願い致します。