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具体化精度の低いものがまかり通る限り(文系では未だにそう)近代は終わらない、 これを共通認識とするところから始めて、近代を終わらせましょう

2021-8-006

多様性を具体化精度の高いものだけからなる場合に限定した次元は、
市場や民主制における需給成立なり、ポジションや具体的有り様の規定なりが、内実に確からしさを持つ条件

(場の性質に反映される個々事情がそう限定される事で、割り振り原理が場の代替不可能な固有性に帰属してると言えるようになる)というだけでなく、


地平として維持される事で、文系者の実力の質的側面を担う
(場との関係改善に向かうでもなく、表層反転させるだけで何かを護った気になるとか、量を振り回される余地潰さないまま求めるとか、役回りを各々の事情加味せずに課すレベルで有限性と向き合わないとか、

考えの甘さ浅さが余裕の有無という局面事情とは無関係に現れてる類をはじめ、質が空っぽな言動で満足するのを、さらには、質の軽視という成立達成執着を、防いでくれる)と推測します。


(場との関係改善は、何ら限定されてない状態の準備と引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、

つまり、自己等々の歴史性を抽象具体間行き来として見て通用を行き渡らせる場合の論点でもある、抽象化精度と具体化条件割り出し精度の追求、
という事実上世界にあるのはこれだけと言えるだろう問題を、言い換えたものであるように思えますし、

専門領域での考えの甘さを確認された人がより上層に位置してるほど、その業界全体のぬるさへの疑いは強まると思います。)



思うに、内実の通用が行き渡っているパターンといないパターンの差異を無視した状態のものを持ち出して話を進めるせいで、
文系域(特に、同種の他との差異が根拠になる局面)での論理展開が、通用の行き渡ってる状態を保存しつつの表層形変転とならず、形骸状態に留まる、

これが既存のパラダイム(できるできないという有限性形態を下の主体像と結び付けるよう導かない為、それ含む無闇な枠組みインストールを許す既存の教育)における最大の有害性でしょうが、


対象の対内在が内在場の代替不可能な固有性に即した割り振りにのみ応じてるかどうか、対外在が外在場の代替不可能な固有性に即した割り振りにのみ応じてるかどうか、
この観点から対象を評価する態度

(とそれが実質を持つべく代替可能不可能の判定精度を上げるのに必要だろう、同種の他との共通要素の捨象能力、及び、具体形パターン網羅への下の主体像から乖離しない制限付きの志向)を持ち合わせてるなら、


最大限代替不可能化させた内在事情外在事情にしか応じない主体像
(負わされ自体は避けられないと認めるものの、生の引き受けを含め、代替不可能なものに負わされを限定しにいく方針)、

この下で定められた観点(着目無視の次元設定)から為される対象位置づけしか、
通用の行き渡ってるもの(否定に値しないもの、受容に値するもの)とは見なさない(多様性を上の意味で限定してる)、

そう期待できる一方で、


例えば、感情を内面世界での割り振りの産物、理性を局面に合わせる能力とすると、
それらが内実不問なまま(場の代替不可能な固有性からの乖離具合を問わないまま)持ち出されてきた(論理展開の妥当性の根拠にされてきた)し、
今なおそうなのは明白と思います。


(前者の内実不問は、他の場の割り振り原理を持ち込まれてるも同然という意味で疑似的な自己を、自己として扱ってしまう事態を齎しますが、
自己に相当する割り振り原理を検討するにせよ、内在場と外在場を個々具体扱いした抽象具体関係構造を踏まえた上での検討でなければ、

林檎は数えられないのに蜜柑ができるだけで数を数えるは十全と思ってる的考えの甘さを、発現保障なり有限性形態の規定なりに関して抱えてしまいますし、

通用が行き渡っているいない判定と肯定否定との結び付きに、その判定自体への判定が甘い為に振り回されてる生という意味で、質を欠いた言動が避けられません。)



また、先の地平維持は、

損か得かといった表層形自体でなく、その内実が詰まってるいるいない(通用が行き渡っているいない)を問う事が意味される為、

割り振りが代替不可能性に帰するかどうかに関係なく、損を避けたり得を取りに行く事態を抑えてくれる

(2+3を10と見なす世界とか100と見なす世界が、理系者による整合という、通用を行き渡らせる作業、この場合、同種の他との差異捨象ベースでのそれを通して、5と見なす世界に取って代わられるのと、

同等の処理効果が、内実の確からしさ差異と根拠の強弱とが結びつく、故にそこの差異把握が理解作業に組み込まれるべき文系的局面でも、期待できる)、


つまり、自己との遠近が、対象位置づけに過剰に反映される
(ちょっとした集団における影響力あるポジションといった程度含め、権力を持った結果、
自分にとっての都合の良し悪しから成る枠組みに沿うよう、自覚の有無によらず、周りに強要するまである)のも防いでくれるでしょうし、



できるだけの事(厳密には、先の主体像から乖離しない範囲でのそれ)をしたが駄目だった的失敗とそうでない失敗といった、

確定性の違いを区別しないまま、つまり、特定する能力が機能不全に陥ってる状態のまま、対象の性質を語る事態
(有限性形態がそうならざるを得ないものかどうかについて検討不全なせいで、冤罪非難的側面や正当性偽装的側面が生じてしまうなど)も防がれたり、
通用してないものを意味するポジションが割り振られたりするだろうからです。


具体化精度の低いもの(主語の切り出しや主語の述語化といったレベルの限定化前後関係から既に見られるそれ)がまかり通る限り近代(先に見た有害性を保存する構造)は終わらない、
(理系で言うところの実験精度の低いものが、文系では未だまかり通ってる上に、状況上やむを得ないといった言い訳も具体形の話に他ならない為、言い訳たり得ない、)

これを共通認識とするところから始めて、近代を終わらせましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。