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救済観(フェアベースでないせいで、結局誰の事も尊重できてないと言える既存のそれ)の刷新に関して(+責任ひいては自由意志の発生理由に挑戦)

2022-2-003

弱者ポジションには非がないかのような前提を疑える反応は珍しくありませんが、それは、
全ての人が不完全な存在で、その不完全さの組み合わせによって不幸が生じる構造自体は避けられるものではなく、
論点は(ポジションとは関係なしに)どういう不完全さだと許容に値するかしないかの基準にある、という話を、

権力の行使被行使の関係構図への過剰反応故に埋没させ、都合の悪さへの過剰否認のごり押しに属性を利用する事態をも可能にしてる形
(したがって、前提でなく、緊急要する局面で要請されるかもしれない、という程度の扱いに格下げすべきもの)に思われます。



ところで、文系域が古代から質的に成長してないと疑える分かりやすい例に、キリスト教の流れを繰り返したように見える共産主義があると思いますが、

3体以上の共有地悲劇問題を許す形で得る資格開く理論の提示、個人の精神や国家の権威や科学の在り方を縛る事で秩序を可能にする実践、現実との齟齬の肥大化、
(ご丁寧に教会主義と聖書主義の対立構図まで再現してるケースすらある)この種の繰り返しの外に出てないとの見方は、

対権力の類にも未だ言える(その意味で凡庸な水準に留まってる)ように思います。


文系域が質的に成長してないと認めるとして、この状況から脱するには、理想と現実の関係(不可避な割り引かれ関係)を、
同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化の不足を見出し修正する枠組み
(その不足がない事をもって、割り引かれが生じてるにもかかわらず通用は行き渡ってると見なす方向で、
限定作用を選ぶに値する状態へと持ってく枠組み)に落とし込む文系教育が必要と推測します。


特に、自由や平等の中身を、場に置かれるものと場との関係におけるその枠組みに整合させる
(もっと言うと、反応の選択に正当性なり根拠なり確からしさなりを持たせるものとしてその枠組みを採用するよう促す)教育、


つまり、その主体が場の疑似でない固有性に着目無視を即させてる(価値基準を委譲してる)程度を評価しつつ
(対象主体の対自己の有り様に関するこの評価が、自身の振る舞いに反映されるかどうかは、自身の置かれてる場の性質次第)、

自身のそれも即させながら(移譲した上で)他者に接してる時、他者に対して不当には接してない
(自他に負わせる事になるものは選ぶに値するもの)と捉えるよう促す教育は、


救済観の刷新に必須と思います。
(各場の疑似でない固有性に即した割り振りを支持してない、つまり、フェア志向でない人は、都合を各場の尊重に先立たせるスタイルと言え、

内面世界も場と見れば、結局誰の事も尊重できてないそのスタイルによる救済は、ご都合主義の抑制が二の次なそのスタイルの下での現象解釈、
言い換えると、内実のいらぬ飛躍を取り除くだけの実力が足りてない理解力によって過大評価を受けてきた。)



そもそも、対常識で言えば、特定時空性に合わせてると見なせる部分をできるだけ剥いだものに、引き受けざるを得ない特定時空性を割り出して付し直した帰結と、
実際とのズレ(いらぬ飛躍)を捉える的な処理は、

文系での理解力の実質を為すもの(先の枠組みはいらぬ飛躍の除去そのものなので、その不在は実力不足)と解すべき
(通念的な理解力の像には、質の不足に相当する上で言う不足を把握する処理は含まれてない)ですし、


そのズレ程度に対する反応の具体化を、代替不可能な内在事情外在事情にしか応じない主体像を具体化条件として展開する処理も含め、
処理(当然、自己が場の上に立ち上げてるものも対象)の前提には、

通用を行き渡らせる働きへの阻害をフェアで抑え続けるべく、各場の疑似でない固有性に着目無視を即させる観点採用方針
(観点にも通用領域の広狭と確からしさとの相関を適用するという、より確からしいものが取って代わる運動性にしか頼らない生方針)が要請されてると見るべきでしょう。


(この時、同種の他との差異要素の捨象、特に対主観でのそれは、局面次第で要請されるものとの位置づけになるので、
これまで見られたような理系的処理への過大評価も、それへの反動反発も抑えられます。

ここで、同種の他との差異要素捨象次元と共通要素捨象次元を個々具体とする抽象次元を想定し、
理系的側面も文系的側面も、そこから言わば文脈的に切り出されたものと捉えた上で、
同種の他との差異要素の捨象次元と物理における特定なり追跡なりの限界とが不可分だと仮定すると、


捨象対象反転の関係にある文系的局面については、責任の発生が不可分で、ただ責任帰属をより確からしいものへと修正する運動性に対する阻害の強弱があるだけ、との推測が可能になり、

それが、都合の悪さへの過剰否認な反応方針にも、権力争奪な人生観にも見られる、割り引かれ忌避の満たし方ではなく、
代替不可能な有限性に負わせ負わされを帰属させる試みの形骸化阻止に、文系の論点があるとの仮説の、根拠になると期待します。)



逆に、冒頭の事態は、小学期前半までに対親権威や対先生権威の論点を掴み損ねたまま十代に突入してしまった弊害の一つ、
したがって、上の教育が不在である帰結でもある。

つまり、対象を不完全さ持つ一人の人間として捉えた上で、代替不可能な有限性に由来する不完全さを許容し、由来しない不完全さを否定対象とする処理(この意味での反動反発と妄信の同時否定)、

及び、場の疑似でない固有性の発現阻害を防ぐのに管理者ポジションが要請されるに過ぎず、必要性や担当がフェアに選抜されてれば良いだけ、
個人であれ国や種であれ、強者弱者の振り分けは内面世界含め場次第であって、場の疑似化(被越境と同等の事態)や場の越境に付き合わない人が増えるほど修正必要性は下がる、
といった(先の過剰反応に陥る事なくフラットなままでいる事を可能にする)理解を、


獲得しなかった(有限性との向き合い方が不十分だった)、
獲得させなかった(フェア志向化への道を見えなくするという、フェアで捨象可能な苦しみを強いてるも同然な上に、フェアで捨象されないものの引き受けも促さない教育環境だった)結果が、
権力の行使側被行使側の一方を不問的に肯定する有り様(というか、先に見た文系論点の不在)であり、

また、代替不可能な内在事情外在事情にしか応じない主体像(応じてこなかった帰結としての固有性、といういらぬ飛躍を含まないように展開された引き受けに値する歴史性)に近いほど信頼し、
余裕がある時の振る舞いにその信頼度が反映される(この内容の需給成立の主流化によって政治経済等の肥大化が抑えられてる)世界を事実上埋没させる働きである、

そう考えるわけです。

ご支援の程よろしくお願い致します。