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棚に上げてると自他を個々具体とする抽象次元が手に入らない、つまり、理系での客観性に相当するのがフェアなのに、その獲得を阻害する断絶が放置されてる

2021-10-001

文系者が、形骸を取り除ける(帰属を修正できる)だけの実力(その有無は自己判断を認める認めないの根拠になる)を、
知的上層であろうと文系的な意味では持ってない(教育に頼れない)点に、

世界の歪み(帰属を操作されてる部分)が保存されてきた最大の原因があるように思います。


小学生が算数の問題を解くのも、数学者が自身の専門近辺を処理するのも、それぞれの水準で形骸を取り除ける現れと見るとして、

ベースにある(抽象化具体化の精度を確保し、通用が行き渡ってる状態の獲得を可能にさせてる)のは、
同種の他との差異要素捨象から成る次元の維持、特に主観に関してのそれでしょうが、


文系域については、同種の他との共通要素捨象から成る次元の維持は、教育を受けてる程度と全く関係ないという、
ベースの獲得に関する文理間の教育内容の格差が、


文系者にとっては、教育内容と距離を取らない(既存の教育が持ってる理解枠組みをインストールしてしまう)時点で、
上の意味での実力がない事を意味する(もちろん、妄信を符号反転させただけの距離取りも実力欠如は同じ)のに、
取らない方が体系の上層に行きやすい、という構造を、

さらには、先の事態を、作ってるのは明らかなように思われます。



政治系経済系であれ、学問系表現系であれ、支持(もちろん、鶴の一声的な量もあれば、対等前提の量もある)がポジションを良くするという場合の、支持反映資格に、
上の意味での実力が関係ない(理系的側面については実力の反映が期待できる)という状況は、

ドーピングによる金メダル的茶番を偶々見せられたといった距離のある話でなく、
自身のポジションや具体的有り様を形骸なものに規定されるという、誰にとっても当事者な茶番を意味してると言え、


さらには、自身に対する扱いの悪さを世界自体のせいにする反動反発(帰属の操作と言える部分以外も込みの否定)、つまり、上の意味での実力欠如の現れが、
支持された挙句の、世界の形骸部分保存に繋がるスパイラルさえ懸念されるわけで、


内在不問外在軽視な主体像(近代性によって強化されてる素朴な解決像や自由観)から、
(同種の他との共通要素捨象をもって)代替可能な要素を削ぎ落した内在事情外在事情にしか応じない主体像(形骸を取り除く対主体)への移行促しをまず、
文系域のベース(ひいては、理解作用の有り様)を確からしくする試みとして、教育に求めていきましょう。



また、通用の行き渡ってるものを選ぶ(通用の行き渡ってないものを選ぶ事による限定化の回避含む)という反応が、

ある表層形をしてる事自体に意味を、場とは関係なく
(具体化精度と関係ない以上、精度最大化された具体化抽象化の交互反復としての歴史と実際とのずれ具合も反映させずに)見る内容となってる生、

例えば、損失や苦痛や失敗といった表層形である事を根拠に持ち出して選ばないとする、表層形断罪として具体化されてる生は、


各場の代替不可能な固有性を損なわないようにした結果(損得や快不快や成功失敗)を選ぶ立場(上の主体像と整合的な内容)から見ると、

内実の確からしさ差を無視したものが根拠にされてる、形骸を積み上げてる生
(表層次元での通用領域だけを見てる、表層的要素に振り回されてる自覚がないか、いらぬ振り回されは限定通用状態であり、上の反応の形骸性を意味するとの理解がない、小手先な問題解決の積み上げな生)、

そう位置付けられる
(もちろん、行動原理把握も帰属の修正作用の一種に過ぎず、より確からしいもの、通用領域の広いものが取って代わる運動性に乗せておくべき)はずで、


この種の位置づけを小学生なら小学生なりの、研究者なら研究者なりの水準でできるようにする事が、
理系(通用の行き渡った状態を保存しつつの表層形変転が、現状でも説得力として要請されてる)との差を埋める教育刷新
(むしろ形骸への、通用の行き渡ってない内実への鈍感さをインストールさせてきた既存の教育からの脱却)に相当すると捉えるよう、

教育関係者に求めていきましょう。


例えば、人間であるというだけで護られるべきものがある、という理念だけでは、
次元設定自在性という人間性に、振り回されてる事態まで保障する、限定通用状態の放置を含む尊重で、
言い換えると、局面と次元設定(着目無視)を一致させる方向への働きかけが含まれない尊重で、
満足されてしまう事はこれまでの人権概念の用いられ方から明らかですが、


上の例(前者的生に縛り付けてる)から見て、理系域を除く教育に同じ構造が言えてしまう事を、教育関係者に認めてもらいましょう。



ちなみに、各場の固有性に即した割り振り(偏りを場の固有性に帰属するものに限る事)を自身の都合に先立たせてない場合、
先立たせてる方針(フェア)の採用者よりも、自身を棚に上げて他者を批判してる形は生じやすいでしょうから、

自他を個々具体と見た抽象次元を捉えにくい、つまり、同種の個々具体を見出し、原理に当たるものを掴まえる作用の機能する領域が限定気味である
(個々具体の具体化精度という、抽象化の素材の質の問題以前に、抽象化の働き自体に難がある)と推測できるわけで、


理系(同種の他との差異要素捨象)特化な捨象観を許してきた
(通用の行き渡ってるものを選ぶべく、有限性が与件の中、通用を行き渡らせる、抽象化具体化の処理に際する、捨象対象の違いに文理の差異を見てたなら、そうはならないはず)既存の教育者含む、

局面と着目無視の一致を重視してない人達には上の話を認めてもらいにくい可能性がある点を、一応、押さえておく必要はあるかもしれません。


(理系特化な捨象観、つまり、局面と捨象対象とを合わさない捨象観を押し付けてくる既存の教育をそのまま受け入れ、修正もしてない人達が、
安易な一般化や普遍化の事例を批判していたなら、

局面次第で選ばれるだけなものを、常に選ばれるものとして扱ってる自分を、まさに棚に上げてる形。)


いずれにせよ、そういう人達も十代突入までに、不当な扱いを受けた感、受けてる感を覚えた経験は無数にあるに違いなく、その経験と、

不当な扱いの受け手像を、自己絡みのみから、他人や他の生物、無生物や概念等を含むものへと拡張した上での、理不尽性とそれが取り除かれてる状態、双方についての抽象次元を獲得する事との間の、

(言わば、対理不尽、ひいては、主体の立たせ方を井の中の蛙状態故に肥大させる)断絶を放置してきた教育環境が変われば


(内在場外在場によらず、各場の代替不可能な固有性を損なわせているいないで形式や帰結を評価するよう、
その評価基準の適用をもって権威への妄信も反動反発も同時回避するよう、子どもに求め、

また、教育する側も同じ評価基準を採用し、
原理抽出含む帰属修正能力を機能させる前提に当たるものとして、理系での客観性と同等の位置づけを、文系におけるフェアに対して与えてる教育環境になれば)、


形骸な生や不十分な他者尊重が、
冤罪的側面はじめ帰属の操作を含んでる批判(場の固有性に帰属してる偏りも否定対象に加えてたり、帰属してない偏りを保存するか新たに齎す内容の働きかけ)が、
そうでないかのようにまかり通る世界の現状も変わるはずです。

ご支援の程よろしくお願い致します。