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いらぬ飛躍をパラダイムレベルでスルーしてしまう問題について、文系域は理系域に比べて、解決具合を大きく引き離されている、という話

2022-9-003

仮説Aでは説明できないものがあったので、それも説明できる形に修正したという場合の、
仮説の位置に哲学を置いた時、説明可能状態に持ってく対象の一つに科学の知見もあるのでないかと思います。


ただ、問題は、ソクラテス(ソフィスト退治)以来持ってるはずの、いらぬ飛躍を見出しそれを取り除いた形に話を捉え直す、という側面が十全には機能してない為に、
哲学者がこんな事を言っていたとか、こんな哲学的主題があってこう展開してきたとか、そうした情報に含まれてる疑似問題を取り除くどころか、囚われてしまってきたし、

科学的知見にしても、同様に十分には生かし切れてないのだろうと推測します。


そもそも、加工不可避である認識におけるいらぬ飛躍のない状態
(加工の前後で通用の行き渡ってる状態であり続けてる認識、認識対象が認識に際して受ける扱いを帰属の修正余地がない現象と言える状態にまで持っていってる認識)とは、

何の限定も受け入れてない段階のものの準備、それが引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、
これらの最大限追求という枠組みに、認識作用が落とし込まれてるケースである(この方向でカントやフッサールは修正を受ける必要がある)と捉えれば、


近代以前の数学や近代以降の理系域全般以外は、対いらぬ飛躍が不十分であると、
プラトン時点だけでなく、現在に至るまで、理想と現実の関係が上の枠組みとして捉えられてはいない事実

(プラトンの提示に対する解答が上の枠組みであるとは今も解されていませんし、
子どもなりの最善のような、課されてる条件を踏まえた主体上限へと促す際に、内在事情外在事情の代替不可能な要素にしか応じない主体像が必須とされてないのは、
内在不問外在軽視と内在軽視外在不問が同時糾弾される倫理状況でない以上、明らかと思います)から言えるでしょうし、


文系的局面での上の枠組みには、同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化や具体化条件割り出しが必要との理解の不在、
および、文系的局面とその捨象とを結びつける内容持つ、局面と着目無視との合致への(反応選抜の方針として採用するレベルでの)志向の不在、
これらを糾弾し修正働きかける状況刷新が、学問界にも教育界にも見られない点からも、それが言えると考えます。



例えば、人間の尊厳を持ち出す場合、
人間でありさえすれば良い的な、同種の他との差異要素の捨象が要請されてる局面もあれば、
同種の他との共通要素の捨象に十分さらされているいないを区別しないと、
人間である限り、あるいは、自分が自分である限り持たざるを得ない的ニュアンスをたたえながら、べつにそんな事はないものを負わせる事態になる局面もある為、

近代パラダイム(前者捨象の領域侵犯と後者捨象の埋没)に縛られてると、搾取する側、奪う側になる可能性(倫理の形骸化なり悪用なり)が十分あるわけで、

パラダイムレベルでのいらぬ飛躍のスルーという問題について、哲学に限らず、文系域では、理系域が近代に達成した水準にすら未だ届いてないと言えます。



したがって、既存のルールなり枠組みなりに対し、興味を持てなくなったり満足できなくなったり修正に値すると感じても
(この時点で、いらぬ飛躍を見出しそれを取り除いた形に話を捉え直す働きが機能してない場合、
例えば、既存の教育を否定するのでも、近代性に由来する内実不問を掴まえた否定ではない、単なる反動反発による過大要求であり得る)、


引き受けに値する方針を見出したり改善すべく、アプローチを哲学化する前に、
通用領域の広狭と確からしさとの相関に認識を頼っていながらそれを見ない領域を、
つまり、認識の確からしさ減を、先の主体像の帰結とは関係なく作ってる近代思考


(局面次第であるケースや先の主体像次第であるケースについて、局面や先の主体像に即してる程度という具体化精度とは関係なく、望ましい有り様を語るなど、
不当獲得に鈍感な次元、表層形のみをもって断罪する次元の外に出てない地平)との決別を果たしておかないと、


帰属の修正余地がないという水準で引き受けに値する方針に対し至れない、引き受け切れない
(実力がない段階、つまり、獲得してる抽象具体関係構造が現実の複雑さに通用できてない段階での自己判断のように、妄信してくれてた方がまだ増しだったまである)とも言える
(文系概念の内容検討はもちろん、冒頭の処理であれ同じ事が言える)はずです。

ご支援の程よろしくお願い致します。