無題0

能動性や主体性を重視する教育も現状、育成すべき最も重要な、理解や管理の形骸化阻止の能力に繋がりません。ここを解決する方向に教育や社会を変えましょう。

2019-6-002

資質や環境の、代替不可能な固有性から、
獲得能力を乖離させない。

(内在や外在の、本質にしか応じない姿勢が、
有限性与件下での最大限の自由。)


この視点(能力獲得における形骸化阻止)を現行教育が欠く以上、

形骸化阻止についての抽象と具体の確からしい関係構造を、
教育が持ち合わせてないのは確定であるし、

自身の形骸化の阻止に自覚的でないと己の形骸化を防げない、
教育の受け手にも同じ事が言える為、


能動性や主体性を重視する教育であろうと、

育成すべき最も重要な、理解や管理の形骸化阻止の能力との間に、

現状、断絶があると言って良いと思います。



その原因は、教育者が、

いらぬ特化(いらぬ飛躍)を避ける事の重要性を、

理解してないからと思われます。


なので、そこの断絶を解消するには、

まず教育者が、

通用領域の広狭と確からしさとの間の相関を、

第一原理レベルの根拠に当たるものとして認め、


いらぬ特化は、
大した理由なく死角(いらぬ通用領域限定)を作ってるような事態であり、

いらぬ特化を避ける能力の獲得を付随させない教育は、

その事態を生き方レベルで強要してるようなものだと、

理解する必要があると考えます。



理解とは、
対象についての、抽象と具体の関係構造を確立できた感であると思います。

その確立が確からしいものとは限らない為、

理解が勘違いである事も珍しくない、というわけです。


一方で、
例えば、天才的表現とは、

その確からしい関係構造が、

表現様式に詳しくない人にすら、表現の背後に感じ取れるような規模で、

溢れ出てるケースなのだと思われます。



その水準の専門性に近付くには、

資質や環境が、特定分野との高い相性を持つ必要があるでしょうが、

そこまででないにせよ、実社会に組み込まれるなら、

時代関連や業務関連など、
何らかの専門性が要求されておかしくないわけですから、


確からしい現象理解を要求される学術系に、
基盤作りで寄与する側面はもちろん、

社会に送り出すという側面においても、

先の確立をより確からしいものにする能力、

つまり、
通用領域の広狭と確からしさとの間の相関に厳格な態度を持つ、
抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究
(対論理飛躍において哲学ですら現状欠いてる、知性の実質)
は、

子どもへの教育に重要と言えます。



その最大限追究と、

相互依存関係であり、
場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力
(内面世界や局面の管理能力)
の基盤となる、

その場その場の代替不可能な固有性と次元設定(着目無視)との合致配慮、

この二つを合わせて、
いらぬ特化(いらぬ飛躍)を避ける処理と見なし、


それへの、
知性や社会性の核心としての扱いを、

教育や社会に求めましょう。


さらには、
主体への評価や扱いに際して、

知性や倫理におけるその処理の有無が、

有り様の陰陽や、社会と上手くやっていけるいけないに、

先立つ者の割合の高い社会を目指しましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。