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自由や罰の疑似問題化を防ぐ為に必要な事について、教育者に問うべき責任にも触れつつ(2022-6-003の内容の省略版の側面あり)

2022-7-008(6-003の内容の省略版の側面あり)

個人的には、理系と文系を個々具体とする抽象具体関係構造を想定して、同種の個々への帰属を語れない(量子論参考)理系的議論と語る事が求められる文系的議論を分けるべきでないかと思います。


何ら限定されてない状態の準備と引き受けざるを得ない条件の割り出し、この両者(抽象化と具体化条件割り出し)の最大限化が(現象の帰属先として)問われてる点は文理共に同じ
(最大限である時の抽象化具体化の交互反復が、肯定される論理や歴史に相当する)なのに、理系だけがガリレオ以降そこを焦点にしてる形であって、


自己帰属として想定できる範囲とそれに対する割り引きとの関係が、そこの最大限問題になってなかったり、
各々が最善な振る舞いをする事と、各々がどういう扱いを受けるか(個々が受ける扱いは具体化条件である場が決める問題)とを別問題にしてないなどの誤解があるのも、

つまり、自由や罰が疑似問題に陥ってる(帰属の修正問題に、上の意味ではなってない)のも、
理想を割り引いたものとしての現実というプラトン提示像への解答として、そこの最大限化
(同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化の不足がない時、文系的現象は条件上の最善として肯定されるとの理解)が示されてこなかったからだと考えます。


理解は、対象に関する抽象具体の関係構造を確立できた感でしかないし、
覚えてるとは、家や学校など具体化条件に差異があってなお思い出せる状態である
(覚えてるつもりがテスト中思い出せなかったなら、仮説が実証されなかった形であり、抽象次元の通用領域が狭かった事を意味する)わけで、

抽象化具体化の不足(特化の過不足)への敏感さを、教育を通して養うよう教育者に求める
(被教育者の見せる帰属の修正処理から帰属の操作の側面を減らす、この意味で知性や倫理の内実を確からしいものにして世に送り出す責任を、
代替不可能な内外事情を免責条件としつつ問う一環として求める)事により、

状況を変えましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。