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既存の明示的、非明示的な倫理教育が、知性や知的活動にいらぬ制約負わせてる世界の現状を踏まえ、負わせない倫理教育とそれを阻害しない環境づくりについて

2020-5-002
哲学的な質問に答える的なスレに投稿しておきました:


人間が持つ次元設定自在性を、場に合わさない絶対性と主体的な構図で結び付けてる内容の発想も、
通用が行き渡ってる状態(保存対象)を、
近代性(検討された内外分離に解決を見るセンスやその産物)の文脈で捉えてる弊害と疑いますが、
一方で、内外の差を無くす方向に解決を見出すセンスも、反動である限り近代性の性格を保存してる為、
これまでの対近代は、近代性の外に出たつもりで出てないパターンの繰り返しだったと疑えます。

この点を踏まえると、人類が近代性に振り回されてる事態から脱するには、
差異の立ち上げ方なり立ち上がってる体系なりに対し、
フェア(場の性質に当たる問われるべき事と着目無視との合致)志向の下で肯定否定するスタイル
(内在の性質と外在の性質を、代替不可能化させてから合わせる事に解決見るセンス)をまず獲得した上で、
近代性と向き合う、という順番が押さえられる必要あるように思われます。

しかし、日本に限らず、現行教育はその合致させる能力を限定させずに発揮する域まで導かない為
(社会的な強者弱者の既存枠組みを盲信したり反動した結果、知性や知的活動にいらぬ制約を負う域止り)、
差異に大騒ぎも見て見ぬ振りもしない(大騒ぎも見て見ぬ振りも不当な扱いと見なす)態度が、
知性や問題意識においても基底(折角のそれらを生かし切るセットアップ的扱い)となるような、つまり、
近代の限界を乗り越えるという目的も射程に収めた倫理教育に、不備を補完してもらうべきと考えます。

なので、その倫理教育のベースとしてまず、教育者に、
知性と倫理の表裏性(一方が表層的要素に振り回される低通用からの脱却作用を減じてるなら他方も)と、
発達理論的な、達成を期待する倫理的課題についての以下のイメージを共有してもらいましょう。

小学期前半までに、
親や教師の相対化(不完全さを持った一人間としての事実に見て見ぬ振りも大騒ぎもしない)、
特定のできるできないに関する優劣の感覚や評価の越境抑制、
小学期後半までに、
平等や自由に対する形式と実質の分離、
外在場によらない肯定否定と外在場による具体的扱いの分離(外界へのフェア化望みは保持)、
(内在場や外在場の性質把握への要約能力の転用、及びその抽出物に引き受けを限る態度が実質や肯定対象)

中学期までに、ルールや現実に対する盲従と反動反発の同時否定、
それ以降は、専門特化の進展と並行して、同時否定の対象を一般常識やパラダイムに拡張、
さらに、フェア基底な合意点(損得や役回りの割り振り方)を、
泣き寝入り強要や濡れ衣着せも辞さないコスト回避や罰逃れへの対抗策扱いしつつ秩序を構想、評価したり、
理解と自由を同構造として捉えたりと、平等や自由との関わりを拡張。

また、このイメージ(本筋)を教育に落とし込む場合、
例えば、不完全さを持つという親についての事実を受容してもらおうにも、
個々の局面と自己の具体形との整合(それぞれの状況における自然な反応)を保てないなら、
見て見ぬ振りも大騒ぎもしない地点には立てず、反抗期が早まっただけ的な話になってしまうと思われ、
常態化を阻止する、理想(この場合、本筋)を犠牲にする程度を条件上の最小に抑える方針と、
各対応に際する抽象具体の関係構造を、現実の持つ複雑さに通用するレベルまで持ってく後押しの下での、
マニュアル仕事のような自己判断抑制が次善の策(反動より盲信が増し)で用いられると想像されますし、

一般常識やパラダイムに対する、プラスにもマイナスにも囚われてないと言える立ち位置の実質である、
時空による加工の前へと抽象化した上で、自身の置かれてる時空の代替不可能な固有性に合わせ加工してる、
この類だけ引き受ける態度を、例えば、権利感覚について展開してもらおうにも、前段となる相対化は、
その感覚が明示的、非明示的な倫理教育の構成物である点(他の感覚も同様に言える可能性への開かれ有)、
そのレベルなら他国との比較機会さえあれば、日本人は差異が顕著な為すぐに至れると期待できる一方で、
人権主権の対立構図をもって現実回してく、問題解決しにいく近代枠組みに関しては、より知的な領分への、
関連知識や未だ盲信されてる原因分析など近代の意義への、それなりの踏み込みが必要と想像されます。

加えて、不当な扱いを受けるという現象の受け手を、自己絡み限定から他者や概念等にまで拡張する内容の、
抽象と具体の確からしい関係構造の獲得支援(保存されるべきものとしてその人が捉えてる対象を、
より確からしくする事で、感情等の、内面世界の産物を井の中の蛙状態から解放する支援)は、
全ての時期を通じて倫理教育の基調になると想像されます。

つまりは、理解(対象に関する、抽象と具体の関係構造を確立できた感)から表層性を排する知性の働きを、
要請しながらの取り組みにならざるを得ないと、それらの想像から推測される為、
抽象化と具体化条件割り出しでの差異形パターンの網羅志向(やその下での抽象と具体の行き来)、
問われるべき事(場の本質)と捨象対象の(処理量増大への耐用持った)合致配慮、
この両者の相補性(端的にはフェア)によるいらぬ飛躍の除去を、
知性や倫理の実質と見なす教育、社会に替えるという全体像の下で、
現行の知性教育と上の倫理教育とを、上手く絡ませた形を教育者に模索してもらう必要もあります。

そうした共有や模索を阻害しない環境づくりの為にも、以下の理解が持たれてる社会に持ってきましょう。

小学生でも算数の文章問題でこなしてる、問われるべき事と次元設定(着目無視)の合致が、
その人の専門領域で発揮されるとは限らない(同種の他との共通要素の捨象に熱心でない等)、
影響力の大きい分野ですら発揮されてないケース(人類規模の災害ですら)が見受けられる、
つまり、その合致に関する、抽象と具体の関係構造を確からしくする効果を現行教育が持たない現状を、
それを許してきた人類の対知性を、我々は変える(いらぬ制約を削ぐ)べきで、
変える為に上の倫理教育(その合致を全ての場で展開させる事に平等を見る平等観の育成等)が必要。

また、場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力の十全機能の管理者要件化や、
場(内面世界や自国社会や国際社会も、無数の局面も)の代替不可能な固有性の把握の論点化が果たされた、
つまり、割り振られたポジションや具体的有り様が引き受けに値し、実際引き受けられてる言わば、
茶番化(構成者の存在価値の棄損)の防がれた世界が、
局面と次元設定を細やかに一致させる、次元設定自在性としての人間性を生かし切った世界がその先にある。

ご支援の程よろしくお願い致します。