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秩序における、都合の押し付け合いの強弱な側面を薄めるべく、擁護や批判の前提に、引き受けざるを得なさへの帰属志向を求めましょう(+逆張りへの批判)

2022-4-004

正当化なり弁護なりは、自分についてであれ他の何かについてであれ、帰属関係をより確からしいものに修正する内容でないなら、
過剰否定を過剰肯定に反転させる、過剰部分のない否定を肯定にすり替える、といった都合の押し付けに、話を持ち込んでる作業と言えるように思います。

しかし、帰属関係を確からしくする試みも、理想現実関係に置かれざるを得ませんから、
例えば、裁判にしろ、関わる全ての人なり法なり制度なりが、帰属関係を確からしいものへと持ってく関わり方をしていたとしても、
理想と現実が安易でない(選ぶに値する通用の行き渡った)関係の時に達成されたものを上限とする他ないはずです。


ところが、理想と現実の間の割り引き関係を提示したプラトン以降今に至るまで、
何ら限定されてない状態の準備と引き受けざるを得ない限定条件の割り出し、
現状での最大限なこの二つを合わせた帰結としての割り引きに対する肯定

(場を問いとして見た時の解答に当たるのが、場に置かれたものを場がその偏りによって割り振った結果であり、価値付けもこの意味での解答と見なす立場、
かつ、価値は場が決めるので、場の性質とされてるものについての、それがそれである限り引き受けざるを得ない要素だけから成っているいないという疑似化程度がメタ的に問題であるとする立場込み)

が支持された事はない(プラトンの提示への解答とされた事はない、別の解答が宗教と絡んで影響を持ったりなどしたのに)、


実際、Aの方が通用領域が広い、Bの方が通用領域が広い、といった自他の主張に誰もが不断に触れておきながら、
対象(概念込み)の文系的有り様について、同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化の不足のなさを、
通用領域最大化状態と位置付ける理解も、肯定条件とする理解もない(そう促す教育もない、
例えば、内在事情外在事情の代替利かない要素にしか応じない主体像を教育は要請してない)、

もちろん、問題解決に対してその不足を抑える処理(代替不可能な内外事情にしか応じない主体像で具体化する有り様が、これに相当してると現在期待してます)をもって、
解決してない状態(通用の行き渡ってない状態)への大騒ぎや余裕あってなおの見て見ぬ振りのような過剰反応
(呼吸はじめ、生自体が問題解決の集積なので、生有り様の問題でもある)を抑制する事
(囚われによるいらぬ飛躍を、問題解決に持ち込まない配慮)もないわけで、


被限定が不可避である中、選ぶに値する通用の行き渡った状態とは、上のような割り引きであるとすると、
地平が既存の文系空間や文系教育の外に出てない人の帰属修正は少なくとも、十全に機能してるとは言えない事になります。



その場合、擁護の類も、仮に帰属修正を謳っていようと、機能してない分だけ都合を押し付ける帰属操作の側面を持ってる事になりますから、
内実の確からしくないものを通すに値するもののように扱ってる(内実の確からしさ差異に対して混同状況を作ってる)以上、

例えば、分かりやすさ重視といった局面事情も無いのに有る時と同じように、愛や平和は素晴らしいと内実無視した物言いをする事で、歪んだ愛や平和まで通そうとする的な搾取パターンの類として、
位置付けられるべきものと見なせるように思われます。



通用領域の広い方を選ぶという話の中(通用領域の広狭と確からしさとの相関に頼らざるを得ない認識の性質上、誰もこの外に出られない)に、
有限の与件性に対する受容も、代替可能な要素を削ぎ落した有限性に対する志向も、含まれていておかしくないのに、

必ずしも含まれない(その二つから成る引き受けざるを得なさへの帰属試みが選ばれない)のは、
何の差異を通用領域の差異にするかを決めてる観点が、別のものを選ぶような設定になってるケースもあるからであって、

しかし、観点は場に他ならず、場は場に置かれるものにとっての内外境界、つまり、有限性の現れでもあります。


また、次善の策をはじめ、一見通用領域の狭いものを選ぶに値するものとして扱うというのも、
ある場においてはそれが、他よりも通用領域の広いもの扱いされるような場が立ってるとか立てただけ(観点の疑似化である事も十分疑える)と言えて、

フェア志向でない観点選抜は、通用領域の最も広い、選ぶに値する観点を選んでるつもりでも、
ドーピング等による金メダル的な事態、その場において問われるべき差異が埋没させられてる事態である事を考えると、


都合の押し付けに話を持ち込んでる(都合の良い不当な割り振りが可能な場となるよう、場の性質を疑似化させてる)のではない、
つまり、帰属の修正と言える擁護や批判には、対場としての代替可能な要素を削ぎ落した有限性への志向を内容とするフェア志向
(各場の疑似でない、つまり、代替が利かない要素だけから成る固有性に即した割り振りへの支持)が、前提として必要であるように思われます。

(擁護者や批判者にその意味のフェア志向を求める空間へと文系を変える事で、
秩序における、都合の押し付け合いの強弱から成ってるという側面を、薄めにいきましょう。)


逆に言うと、中心周辺の上下論だったり、局面事情(余裕がないなど)の要請ではない逆張り(表層形反転)だったりは、
先の含まれないケース(場の性質に対する疑似化除去が論点ではなく、都合の押し付けが可能になる方向に自由や解放を見てる形)なので、

通用領域の広い方を選ぶ処理にいらぬ飛躍(観点の疑似化)が入ってる状態を許してると見なせる以上、
哲学におけるいらぬ飛躍除去の側面(ソクラテスによって持ち込まれた側面)が機能不全に陥ってる知的環境の産物と疑えるように思います。


知的環境がいらぬ飛躍に敏感であれば取り合ってもらえないはずの代物が通ってしまう
(特に、引き受けざるを得なさ、そうせざるを得なさに偽装して何らかを負わせる試みが通ってしまう)現状を認め、

それは局面の疑似でない性質次第です、それは主体の疑似でない固有性次第です、判断選抜もフェアな方が結果を負うにも納得できます、
こうしたいらぬ飛躍を糾弾してる形の指摘(引き受けざるを得なさへの帰属要求)が取りこぼしなく持たれる方向に、文系空間を変えましょう。

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欧米文系からの解放哲学。代替不可能な内外事情にしか応じない実存を解決状態として扱う主義。
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