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2022-7-007

妄信的否定も次善の策(安易に肯定する事態を防ぐ)として認めるにしても、
次善の策を本筋に対する割り引きと見て、割り引きの過不足(対割り引きにおける安易さ)を抑えてるかどうかに加え、

このテーマ(殺人)の場合、宗教的な情報(死後世界なり生前世界なりの秩序から、自殺より殺される方が増しとか、何週目を境に中絶の意味合いが変わる等の説)そのものについては、
大半の人が判断できない為、どういう人間(この場合、宗教家)であれば信頼するかという像選択の問題があると考えます。


いずれにせよ、何をもって安易さが十全に否定され(認識場や社会場などの、場の上に組み上がってるもの、形式や帰結が形骸でない)、
選ぶに値する状態(通用が行き渡ってる状態)にあると捉えるかの問題になるかと思います。

個人的には、理想(割り引かれる側)と現実との間の関係について、何ら限定されてない状態の準備(抽象化)と引き受けざるを得ない条件の割り出し、
この両者を同種の他との共通要素の捨象追求でもって展開してる内容に持って行ってる
(例えば、場の疑似でない固有性に即した割り振りへの支持の意味でのフェア志向)なら、そう捉えられると考えます。


なので、近代性(分離で満足し、分離物や分離先における内実の確からしさの差異を気にしない認識枠組みなり解決形式なり)の下では、その捨象は埋没してしまう
(その捨象を用いた抽象化具体化の不足がない状態と、文系的問題の解決や受容形とが結びつかない)為、

少なくとも、近代性(への特化を強いてくる教育者)と距離を取りながら教育と付き合ってこなかったなら、
その人の肯定否定は安易(負わされるに値しない限定通用的な都合の押し付け)な側面を持ち、次善の策の有り様を局面に合わせる事もできない、
教育から近代性を可能なだけ引きはがしにいってない社会場の性質は、防げる類の疑似化を抱えてる、そう解せると思います。



厳格さや不確定の程度含む、硬軟は場(の疑似でない性質)が決める(価値、ひいては形式は場が決める)という話と、

同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化の帰結を、その場において採られるべき現象形とする、
普通の意味で解決できてない状態(表層形)もその帰結の場合(内実)にだけ肯定(安易でない扱い)される、という話は、

同じ内容というイメージです。



場の上に立ち上がってるものが場の疑似でない固有性の発現を阻害していないなら肯定し、阻害しているなら否定してる場合、形骸化した形式を肯定する事態も防げるはずです。

そこの阻害と関係なく肯定否定してる人(同種の他との共通要素の捨象を用いた抽象化具体化の不足を気にしない人)は、
認識枠組みが、各認識局面との間に齟齬をきたしていてもスルーしてしまうわけで、
認識対象に、その齟齬に相当する割り引き過不足を与えてきた(場合によっては、そこの過不足あるものを知的権威を付して世に流してきた)事になる為、

教育から近代性を引きはがしたり、近代性と距離を取りながら教育と付き合う事は、
そこの過不足を抑えて対象理解の精度を上げる事に繋がると考えます。

ご支援の程よろしくお願い致します。