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選抜者用教育であれ、フェア志向でない人の文系的言動を、客観化できない人の理系的言動と同じ水準の知的位置づけで扱わないなら、文系的には形骸物

2021-12-007

主張選抜の精度を確保する教育として、客観化の働きかけはあっても、フェア志向化の働きかけがない点(文理のケア格差)が変わらない限り、
選抜者用教育であろうとなかろうと、

いらぬ不幸と引き受けるに値する不幸との境界線を恣意的にしか引けない
(割り振り割り振られに現状最大限の内実確からしさが備わってるかどうかを、理想現実関係が安易でないかどうかを、判断できない)状態で、
自他の救済(状況の保全なり誘導なりを含む、望むポジションの確保)を展開する有り様が、

教育期間中は放置され、社会にそのまま送り出される内容である事に違いはありません。


要するに、既存教育は人で言うと、局面の固有性に合わせた反応ができない、場の固有性に即しているいないで肯定否定できない有り様に相当していて、

与えられるものに妄信的に接してる状態は、条件の悪い局面事情に合わせた次善の策として肯定されるに過ぎないのに、
量を取りにいく上で効率が良い等の理由から、次善の策を常態化させてる過保護状態にある人、

つまり、社会なり個人なりを肯定否定しても、それらが内在場の上に立ち上がってるもの、外在場から受け取ってるものを、
場の固有性に即しているかどうかで、場に持たされてる偏りに過不足が生じてないかどうかで、肯定否定す能力が、
言い換えるなら、表層形を内実の確からしさへと帰属させる働きが不十分なせいで、
不当性に対しそのまま肯定するか、着せ替えた上で肯定する事しかできない人、

との親和性が高い内容にあると言えるわけです。



逆に辿ると、不当性を肯定してしまうのは、
通用領域の広狭と確からしさとの相関、及び、通用が行き渡ってるかどうかは全体枠の設定次第で変わる、これらの前提の下で、
限定通用物を、選ぶに値するレベルの通用領域の広いものと結論してしまう観点を持ち出した事に原因があるので、

不当性を否定してる(不当性の忌避が形骸でない)と言える為には、
今は何の差異が確からしさ差に当たるのかを取り違えてない場に、対象を置く必要がある
(具体化条件に含まれる疑似部分の分だけ対象を歪ませるのに、そこを取り違えてる程、場に置かれたものに持たせる偏りに過不足が生じる)わけです。


これを教育の場合で言うと、
理系的局面では、同種の他との差異要素の捨象次元の維持(の下での抽象化具体化の交互反復による通用の行き渡ってる状態の保存)を要請し、
文系的局面では、同種の他との共通要素の捨象次元の維持(同上)を要請する必要があり、


客観化の能力だけでなく、
要点導出の能力(場の固有性把握に絡む)とフェア(各場の固有性に即した割り振りへの支持)を越えては自他を助けない(損得や役回りの割り振り割り振られ自体に、振り回されない)姿勢との相補的関係をも、
義務教育で育む必要がある

(例えば、自分を棚に上げた批判は、林檎や蜜柑を数えるといった具体形パターンから、数を数えるという抽象次元に遡る的能力が不全な証拠、
つまり、反面教師の機会を逸してきたとか、原理抽出能力が十全には機能してないとか、理想現実関係を抽象化具体化の精度最大化枠組みに落とし込めてない証拠であって、

行動原理だけでない何らかの原理に関する、抽象次元の通用領域という意味での実力を高める機会を放棄してまで、ポジション確保に固執してる事態に、
フェア志向の欠如は拍車をかけてる形です)。


こうなると思われ、通過しても、不当性を肯定する知性や倫理
(例えば、歪んでいるいないを分別する確からしい原理付さない愛推奨は、不当性肯定の外に出てない)はそのままである、


つまり、文系的な質は事実上変えない(付される権威も、負わせる負わされるに値する状態へと持ってく力とは関係がなく、
値しない状態のものに対しては着せ替えを、値する状態のものに対しては値しない状態への移行を、改善と勘違いさせた)まま社会に送り出す

(民主主義なので、妄信と反動反発の二択地平のような、諸々の理想現実関係が安易でないかどうか、通用が行き渡ってるという意味での選ぶに値する状態へと修正する必要があるどうかの、
判断精度が低い状態ままであろうと、政治に責任持たされるのに)枠組みである、


これまでの教育はその方向
(特に、フェア志向でない人の文系的言動を、客観化できない人の理系的言動と同じ水準の知的位置づけで扱う、また、そうするよう働きかける方向)に修正されるべきと言えるはずです。

ご支援の程よろしくお願い致します。