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帰属の操作に対する現世界に見られるぬるさを、せめて理系域での不備に対する存在のし難さの水準にまで持っていくよう、教育に求めていこう、という話

2020-11-005

発達段階に応じた課題達成という形式を学校教育も持ってるけれど、
次元設定自在性としての人間性を、使ってるつもりで振り回されてる事態に陥るのを防ぐ能力が、
教育を終えても理系的にしか(同種の他との差異要素の捨象としてしか)獲得されない点で、実質が十分とは言えないように思います。

つまり、評価なり位置付けが、実質を取りに行った結果、形式面はこうなってるという内容になってない、(局面が形先行量先行を要請してるしてないと関係なく)実質がなくても構わないという実態になってるわけです。



より確からしいものが取って代わる運動性を損なわずに(その運動性が置かれる場、つまり、その運動性への規定作用を、その運動性によって規定させつつ)発現(存在性の演出的発現含む)させる、されてるか捉える能力、

場(内面、局面等)の(代替不可能な固有性として現状の最大限に取り出した)本質に着目無視を、局面要請に捨象対象を合わせた上で、関係構造を立ち上げたり諸々を割り振る能力(場と齟齬のない知性や倫理)、

この育成(資質や環境に対し代替不可能な要素のみ引き受けた結果の注力判断やインストール選択の育成も含まれる)という抽象的理解に一旦遡り、
それがそれぞれの場の条件の下で具体化されるだけ(場の固有性に即した形式や帰結の組み上げ)と捉え直しましょう。

(同種の他との差異要素捨象と共通要素捨象の価値対等から離れ、文系者もわざわざ前者に特化する形のこれまでの教育は、文系者や倫理面にとっては設計の不備、近代パラダイムの弊害と見るべきです。)



次元設定自在性に振り回されてる(場と設定次元の齟齬)状態で何かを得たり達成したりを、不当な帰結として捉え見出せる人を文系域では育ててこなかった事が、

つまり、見て見ぬ振りも大騒ぎも抑えてくれる、局面と着目無視との合致の下での振る舞い(確定扱いの程度を局面事情の反映としての強弱に留め、いらぬ飛躍を抑える態度含む)に徹する姿勢を、
その局面が取り出すよう求めてる確からしさ差と捨象設定との合致配慮、平等対応や囚われてない有り様の中身(利己利他の図式で矮小化させてない類の、差異への反応についての理解)扱い、
これらに拡張させる教育の欠如が、

帰属しない罪(己の非含む)まで擦り付けてる分だけ、社会なり個人が持つ体系やその変遷を確からしくする方向からずれてしまってる類の批判でも、まかり通ってきた原因でしょう。


逆に、有限性自体は否定されるものではなく、有限性が無条件に肯定されるわけでもなく、代替不可能化させてない有限性を代替不可能であるかのように扱う事が否定されるべきで、

代替不可能化した特性のみ引き受ける事により特性由来の限界を抑えるよう求めるなど、その方向の働きかけが先の運動性の発現阻害(加工の過不足)の縮小(有り様の形骸性低減)に相当すると見れば、
個人や社会の有り様への肯定否定がその内容を持ってない現状も、

例えば、パラダイム(絶対性相対性の間の振り子などの表層反転解決センス)や文化傾向(安易さ忌避する徹底性が良い方向にも悪い方向にも展開され得る不安定さ持つなど)が反映されてる枠組みや理論だろうと、
文脈を自分で見出したり深堀りする志向を希薄化させるような文脈依存傾向の下で輸入し広めた弊害への責任(フリーライダー対策付さない共有推奨などは説明求められておかしくない時代なはず)も特に覚えない事態も、

教育の修正次第で改善は全然可能と期待できるように思います。



もちろん、(批判能力と情報量の関係について)二の段でも9を掛ければ何とかなる的な力技で生きてきた(量追求の副産物としての洗練にのみ質を頼ってきた)形、
親への盲信(不完全さ持った一人間として扱わない有限性否定)状態に留まるがごとく、学校教育設計の不備をスルーしてきた(知性や倫理への、見て見ぬ振り由来のいらぬ歪みを許してきた)形に、

結果的になってしまった人達と権益的にぶつかる事態が予想できる以上、その層から、

原因帰属の把握失敗(通用が行き渡ってる状態を保全しつつの変転とは言い難い論理展開)を見出したり、起こしてる原理を捉える能力について、文系域でのそれも、
量を追うに先んじてできるだけ高めておく、少なくとも並行してできるだけ高める試みに対する、現実的事情による割り引きを最小化する方向への転換に、

阻害圧力があるとの覚悟も必要でしょうが、
(内在での囚われも除去対象な自由観への、内在不問なまま外在に見出された制約の除去に拘泥する自由観による権益保持的反発と重なる構図)


あったところで批判行為を抽象化した、例えば、対常識での、
特定時空性を(具体形の差異パターンを参考に)できるだけ剥いでから、現時空における代替不可能な特定時空性を付し直したものに相当する想定と、実際に負わされ得る常識とのずれ部分を否定対象と見なし、

否定対象への具体的反応(精神的に距離を取るだけなり、積極的に修正を働きかけるなり)に際しては、具体化条件となる、その人の負ってる条件(資質、環境等)を代替不可能なものにする、
この種の対応処理で応じる以上はないと見て、

状況の改善を期待するにせよ、
阻害圧力があろうと、文系域での批判能力を高める働きかけを教育実践者にも向けてもらう以上の対策は無理と見た、改善の上限を織り込みつつの、方向転換(教育の修正)のイメージにはなるかと思います。

己に非が無いかのように見せかける為の批判はじめ、帰属の操作に対する現世界のぬるさを、少なくとも、理系域での不備に対する存在のし難さの水準にまで寄せるべく、
次元設定自在性が、局面と着目無視との合致の下での振る舞いに徹する姿勢(差異への反応の方針)に紐付けられてる状態を、知性や倫理の基底に据えさせる教育求めてく中に、その向きも含めましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。