無題0

日本人の秩序感覚(及び、個人の保障の仕方)を変えるという働きかけにおける二つの方向性について

2019-9-007
日本人の体制批判や議論に関するスレへの投稿内容


例えば、議論において他者の意見を尊重するという方針は、
ドーピングしてる選手を排除せずにレース結果を得る的意味(問われるべき事と見出した差異が不一致)で、
確からしい結論を導く能力がないケース(思考にも同不備が示唆される)も含んでるのが現状です。

今や世界を覆い尽くしてるとはいえ、近代型権利も同構造を持つ為、
既存の権利観(社会契約論含む)を前提とする言動には確からしい帰結を導く力はないと見るべきでしょう。


対体制に限らず、修正すべき点についての把握とリアクションに確からしさを求めるなら、
内面世界も自国社会も国際社会も、あるいは、無数にある局面も場として見つつ、

場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる事ができていなければ、場の管理者として必要なだけの能力を、その場に関しては持ち合わせてないと見なす(有能無能判定)社会、
管理者ポジションへのその能力の要求と、管理の受容とが対になってる社会を目指すべきです。

(抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究を性質把握の、理解力の実質として、
場の代替不可能な固有性と着目無視との合致配慮を倫理の実質として扱う教育で達成は可能と期待します。)


個人が過剰に負わされる事態やそれに親和的な秩序感覚への対処も、
場に合わせる合わさないの対比でなく、
場の表層的性質に合わせてるか場の本質的性質に合わせてるかという、浅深を論点としましょう。
(極日常レベルから場に合わせる文化では、深さだけ気にすれば良いというステップ上の利点があります。)

場の本質に即した形に損得が割り振られ、引き受けられてる秩序(これ以外は泣き寝入り強要を含む秩序)、
それを目指す(議論機会や思考においても重要)方向性の一環として、
個人の保障もある(そうでない保障は理屈上、秩序の健全性を損なうのと引き換え)、
そう捉え直す(近代の理論的刷新含む)ところから始めましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。