見出し画像

リトル・アート・シアター #映画館の思い出

リトル・アート・シアターという、名前のとおり小さな映画館は、米国で初めて住んだ小さな町にあった。200も満たない座席数。夜しかあいていなく、一週間に2回のペースで、上演作品がかわった。

もともと映画好きだったし、いくつもの作品をそこで見た。日本ではハリウッド大作映画は避けていたが、そこでは、アート系から、はやりのから、何でも見せるので、自然と広い範囲の映画を見るようにもなった。

この映画館で経験した、軽いカルチャーショックは、字幕がないことはもちろんだが、人が音をたてることだ。ポップコーンを入れた紙がこすれるカサカサという音。ささやき声。日本でも、映画館で聞く音ではあったが、音量が大きい気がした。英語だけで会話を追うのも、観客のたてる音も、わたしを緊張させた。

そして、上映中の笑い声。

日本の映画館で、わたしは笑い声をたてる人に出くわしたことがなかった。笑うことを狙って作られている作品で、思わずもれてしまう声は聞いた。でも、映画館でない所でたてるような笑い声を、耳にしたことがなかった。

小さな映画館で、笑い声がおこる。おかしい場面になるたびに。コメディ作品でなくても。声を抑えてでもいいような気がする時でも。

この映画館で「バットマン」を見た時、まわりの大笑いにつられて、わたしも初めて、映画館で声を出して笑った。日本でだったら、見にも行ってなかったと思うが、記念作品になった。

わたしはどうして笑ったんだろう。みんなが笑うから?おんなじにしたいから?いや、単におかしかったから。そう感じたら、笑ってもいいから、ここでは。映画館でも。

映画館で見ることを選ぶ理由は、ひとつではない。テレビ画面でなく、大きいスクリーンで見ること。スピーカーや暗闇が提供してくれる、臨場感。その空間と時間の中で、ひとつのことに没頭できる環境。

そして、人の反応。演劇や音楽演奏のように、その場、を共有して楽しむ醍醐味。人の反応が、自分のに影響する。ほかの人の笑い声。すすり泣き。だれかの舌打ちや、短いつぶやき。共感する。じゃまに思ったりもする。同じように気持ちが動く。


その映画館で聞いた音の中で、いちばん印象に残るのは、誰もが静かな中で、観客一人だけの笑い声が響いた時だ。

「マイ・レフト・フット」という映画だった。主人公は、脳性麻痺で、生まれつき、左足しか動かせない。原作は自叙伝で、軽い話ではないが、映画ではコミカルな描写も多い。でも、半身不随の主人公の動きが、どうユーモラスに写っても、そう見せていても、観客から、笑い声はたたない。フッと漏れるような、静かな音以外。

一人の女性の笑い声がした。高い、明るく響く声で、ハハハと、響いた。主人公の言動で、体が麻痺しているからこその、周囲の人々とのやりとりや反応が、コミカルになってしまうところで。いつまでたっても、笑うのはその人だけだった。

わたしは彼女を知っていた。その人には、マイ・レフト・フットと重なるような友人が、いた。一度パーティーで会ったことがある。その時も、彼女は、そして、その友人も、麻痺している体のことを、気にしないというより、話題にさえしていた。からかいさえしていた。

おかしいんだもの。

笑っている彼女の、理由だった。
上演後、出がけに会った彼女が、そう言った。

笑うのを慎もうと思うほうが、友だちに失礼な気がして。

自分の気持ちに正直な彼女。
みんなが笑うから、じゃなくて。自分がそう思うから。
人に合わせて、気持ちを決めているわけじゃない。

米国に来て、米国のやり方なり、文化の違いなりを知った。それは、別に、新しい文化のやり方の方がいい、ということではない。でも、その新しい文化の中で大切にされていることが、わたしには新鮮だった。

自分が。
自分で。

あのとき、鳴り響いた、彼女の笑い声。
そのときも、あとにもずっと、頭の中でこだました。


小さな町の小さな映画館で、字幕なしも、人がたてる音も、いつの間にかあたりまえになった。新しい場所が、だんだんと、自分の場所、になっていった。




この記事が参加している募集

#映画館の思い出

2,637件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?