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スマホ時代の哲学~失われた孤独をめぐる冒険~ 谷川嘉浩 感想



本の概要

職業哲学者である作者が哲学の世界の水先案内人として、専門領域を一般人向けに書いた本。テーマとしては現代社会の孤独の問題、-SNSなどの常時接続された緩いつながりの中で、本当の意味での孤独やつながりが失われているのではないかという問題- について様々な哲学者の考え方を引用しながら議論する。

作者について

所属
京都市立芸術大学 美術学部デザイン科 講師

学位
博士(人間・環境学)(2020年3月 京都大学)
修士(人間・環境学)(2016年3月 京都大学)

哲学者としての研究や出版物について
学位論文では、互いを見知らぬ大規模かつ複雑な「社会」という領域を見出し、そこに存在する諸問題に取り組んだ、19世紀後半から20世紀前半におけるアメリカの知識人たちの思想と実践について論じました。その中心に据えたのは、哲学・心理学・政治学・社会学・大衆社会論・消費社会論など、多領域にまたがって活動した知識人であるジョン・デューイです。これは、『信仰と想像力の哲学』(勁草書房)として、2021年に書籍にまとめられました。
さらに、2022年には日本の哲学者を扱った学術書『鶴見俊輔の言葉と倫理』(人文書院)、そして一般向けの本である『スマホ時代の哲学』(Discover 21)を刊行し、2023年には座談本『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎)、学際性と共同性をテーマにした『〈京大発〉専門分野の越え方』(編者, ナカニシヤ出版)を、2024年には『人生のレールを外れる衝動のみつけた』(ちくまプリマー新書)刊行しました。

研究スタイルについて
学際的な学部・大学院で学問を修めたこともあり、マルチリンガルのように多専門性を心掛けた研究を展開しています。私の主専門は「哲学」ですが、業界内で「これが哲学だよね」と理解されている輪郭に沿って思考するのは哲学にとってよくないことだと常々思っていました。
問題や課題、依頼に応じて、あるいは、私の関心や動機、能力に応じて、どんな領域の知見や手法でも学び、活用するべきであり、それが結果的に「哲学」とみなされるかどうかは些末な問題だと考えています。これは、学位論文で研究したデューイの立場であるとともに、私の研究スタイルでもあります。
私は、哲学の知識やスキルを活用ないし横展開したり、新しく知識やスキルを身につけたりして、必要に合わせて分野を越えながら研究しています。『メディア・コンテンツ・スタディーズ』の出版、『質的社会調査のジレンマ』の翻訳、「ゲームはどのような移動を与えてくれるのか」「コンテンツ・ツーリズムから《聖地巡礼的なもの》へ」などの論文は、そうしたスタイルをわかりやすく伝えてくれるでしょう。
教育面では、普段は芸大デザイン科で「制作実技」の指導を行うのが私のメインの仕事です。主な授業では別に哲学の話をしていません(非常勤先のコマでは哲学などの話をしていますが)。また、卒論や修論の指導も行っており、デザイン研究、文化社会学、芸術学など自由テーマで学生は論文を書いています。

https://researchmap.jp/y-tanigawa/

内容まとめ

この本の掲げる大きな問題提起として、現代人の自己完結性、現代人は誰もが「自分が まともで、判断する力が問題 なくあって、物事について適切な仕方 で 関わる こと が できると思って」おり(大衆社会論)、インスタントな感覚刺激のみをもとめ、咀嚼してなおわからないような複雑なことまでもそのような態度(対象関係論の自閉錯覚ポジション)で接するようになっている。その結果、人々から<孤独>(=「沈黙の内に自らとともにあるという 存在 の あり方 (p.122)」)、<孤立>(=自分に起こるすべてのこと について、自らと対話すること 」(p.122))が失われ、〈寂しさ〉(=「いろいろ な 人に囲まれているはずなのに、 自分はたった一人だと感じていて、そんな 自分を抱えきれずに他者を依存的に求めてしまう状態」(p.123))が加速されていることを挙げる。その背景には人々に短期間で変化や成長が絶えず要求されていること(ポストフォーディズム)や、SNSに代表されるようなテクノロジーやネットワークの発展により、インスタンスな感覚刺激を容易に摂取できる状態になった(メディア論)ことがあることがある。これに対して著者は、「趣味」(=何かを作り、育てる行為を反復する中で、自分を二重化し、自己の中の他者と対話する、コミュニティと切り離された活動)を持ったり、それを通して「自治領域」(=孤立を通じて自己対話的な遊びをするための領域)を作ることで、退屈や不安とほどほどに向き合っていくことを提案している。

気づいた点

自己啓発にハマってるということ

自己啓発的な考え方に無意識のうちにハマっているなということにきづいた。特にここ数年の活動を振り返ってみて、自己啓発的に踏ん張ろうとし、なんとなくうまくいかないような気持ちをずっと抱えていたこと、自分についての異常な関心(Twitterの投稿をみればよくわかると思う)、あらゆることを個人の問題として片づけすぎていた(例えば、睡眠を薬で対処している)ことに気が付いた。気づかなかった要因としては、自己啓発という概念をよく聞くけれど、その意味をわかっていなかったからだと思う。本書で紹介されていた、牧野智和研究

  • 『自己啓発の時代:「自己」の文化社会学的探究』

  • 『日常に侵入する自己啓発:生き方・手帳術・片づけ』

  • 『創造性をデザインする:建築空間の社会学』

を読んで見ようと思った。

よく分からない点

なぜネガティブケイパビリティが最近はやっているのか。歴史における立ち位置

ネガティブケイパビリティという概念を最近よく目にするようになっており、それがどういう流れで興隆しているのか、この本を読んでもよくわかっていない。今のところ、以前読んだネガティブケイパビリティ

 不確実 性 と 不安 に さらさ れ、 見通し が 悪く、 明確 な 解釈 を 持つ こと も でき ない 状況 を 生き つつ、 他者 や 外界 の 情報 に 無遠慮 に さらさ れ て いる という 点 では、 ビオン が 分析 家 に 求め た 能力 は、 私 たち にとって も 参考 になり そう です。   実際、 キーツ から ビオン ら を 経 て 受け継が れ た この 概念 に対して、 精神科医 で 作家 の 帚木 蓬生 さん は、 その 種 の 再 解釈 を 加え まし た。 彼 は、 性急 に 結論 を 出さ ず に 棚上げ する こと の 創造 性 を 説き ながら、 観察 と 想像 を通して 他者 の 体験 の 核心 に 迫っ て いく ため の ヒント を、 ネガティヴ・ケイパビリティ に 求め て い ます。(* 99)
キーツ や ビオン の 照らし 出し た ネガティヴ・ケイパビリティ は、 作家 や 精神科医 だけで なく、 私 たち みな に 必要 な 力 だ と 示唆 さ れ て いる の です。   そして、 帚木 さん の 著作 を 参照 し つつ、 この 概念 を 文学 作品 との 関連 で 再 提示 し た のが、 文学 研究 者 の 小川 公 代 さん です。 彼女 は 当初、 女性 の 労働 について 研究 する 社会学 の 大学院生 として 過ごし て い た ものの、 アンケート などの 社会調査 を通じて 女性 たち の「 経験」 や「 声」 に 近づく こと の 困難 さを 痛感 し て い まし た。 しかし、 ケア 倫理 で 知ら れる キャロル・ギリガン という 心理 学者 の 文章 が 転機 に なっ た そう です。 ギリガン が 本 の 一節 で 行っ た 物語 分析 が 人間 経験 の 肌理 を 繊細 に 表現 し て いる こと に 感銘 を 受け、 文学 研究 の 世界 に 分け 入る こと に なっ た との こと。(* 100)   人間 の 経験 に 迫る ため に こそ、 文学 を 読む 意義 が ある という スタンス が ここ には あり ます。 小川 さん 本人 に 聞い た こと は あり ませ ん が、「 想像 の 世界 には、( ある 面 では 現実 よりも) 色濃く 細密 に、 人間 の 経験 が 表現 さ れ て いる」 という 感覚 も ある の かも しれ ませ ん。 とは いえ、 ここ で 注目 し たい のは それ では なく、 こうした 文学 観 の 背後 に ある 小川 さん の「 感じ 方」 です。   小川 さん の 文学 観 には、「 人間 の 経験 は、 文学 において 謎 や 不確か さ として 立ち 現れ て おり、 把握 し た と 思っ ても こぼれ落ちる もの が 常に ある」 という 感覚 が 流れ て いる よう に 思い ます。

谷川嘉浩. スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険 【購入者限定】スマホ時代を考えるための「読書案内」付き (p.192). 株式会社ディスカヴァー・トゥエンティワン. Kindle 版.


SNSコミュニケーションを否定する論調の多さ

以前から何冊か本を読む中で、特にメディア論の文脈?でSNSコミュニケーションへの警鐘をならす論調が多いなと考えており、どうしてそのような流れになっているのかはよくわかっていない点として挙げられる。
下記は私のアカウントでその違和感について投稿したものである。
備忘録的に引用しておく。


感想

印象に残った部分としては、序文の中の哲学を医学に喩える視点である。

哲学 の 働き について 考える ため に、 古代 ローマ の 哲学者 で ある エピクテトス の 発言 を 見 に 行き ましょ う。 エピクテトス は 私 が 好き な 哲学者 の 一人 なの です が、 元 奴隷 という 大変 な 経歴 の 持ち主 です。 彼 は こう 言っ て い ます。
 
ねえ 君たち、 哲学 の 学校 は 治療 する ところ だ。〔……〕 つまり、 健  康 な 状態 で〔 哲学 の 学校 に〕 やっ て 来る わけ では なく、 ある 人 は 肩 を 脱臼 し て、 ある 人 は 腫れ もの が でき て、 ある 人 は 瘻管 が でき て、 ある 人 は 頭痛 が する ので やってくる わけ だ。(* 4)  

何かトラブル( 病気や怪我)を抱えたとき、人はそれを治療するために哲学を学ぶのだとエピクテトスは言っています。

谷川嘉浩. スマホ時代の哲学 失われた孤独をめぐる冒険 【購入者限定】スマホ時代を考えるための「読書案内」付き (p.12). 株式会社ディスカヴァー・トゥエンティワン. Kindle 版.

私が哲学に求めていることを言語化してくれていると感じたからである。これまで、私は昔から度々感じていたいろいろなことに対する問いを解決しないまま、とりあえず目の前のものにしがみついて生きてきた。しかし、その結果、どうも目の前のことに集中できず、堂々巡りの中に立ちすくんでしまうことが起き、困っている。これを解決するために、つまり治療行為として哲学に触れる機会を増やしている。そういった視点を言語化してくれているエピクテトスの話を知れたのは自分にとって良かったのではないかと思う。近年の哲学ブームも、医療的行為としての哲学が必要とされている結果でもあるのだろうかと想像した。

基本的この本の著者の哲学観や哲学に対する姿勢(二章 : 自分の頭で考え ないための哲学 参照。)はすんなり入ってきて、理屈として違和感を感ずるところはほとんどなかった。(実践ができるかというとそれは別の話だが。)そのため、今後哲学系の本を読むときの基本姿勢として参考にしようと思った。


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