本の概要
職業哲学者である作者が哲学の世界の水先案内人として、専門領域を一般人向けに書いた本。テーマとしては現代社会の孤独の問題、-SNSなどの常時接続された緩いつながりの中で、本当の意味での孤独やつながりが失われているのではないかという問題- について様々な哲学者の考え方を引用しながら議論する。
作者について
内容まとめ
この本の掲げる大きな問題提起として、現代人の自己完結性、現代人は誰もが「自分が まともで、判断する力が問題 なくあって、物事について適切な仕方 で 関わる こと が できると思って」おり(大衆社会論)、インスタントな感覚刺激のみをもとめ、咀嚼してなおわからないような複雑なことまでもそのような態度(対象関係論の自閉錯覚ポジション)で接するようになっている。その結果、人々から<孤独>(=「沈黙の内に自らとともにあるという 存在 の あり方 (p.122)」)、<孤立>(=自分に起こるすべてのこと について、自らと対話すること 」(p.122))が失われ、〈寂しさ〉(=「いろいろ な 人に囲まれているはずなのに、 自分はたった一人だと感じていて、そんな 自分を抱えきれずに他者を依存的に求めてしまう状態」(p.123))が加速されていることを挙げる。その背景には人々に短期間で変化や成長が絶えず要求されていること(ポストフォーディズム)や、SNSに代表されるようなテクノロジーやネットワークの発展により、インスタンスな感覚刺激を容易に摂取できる状態になった(メディア論)ことがあることがある。これに対して著者は、「趣味」(=何かを作り、育てる行為を反復する中で、自分を二重化し、自己の中の他者と対話する、コミュニティと切り離された活動)を持ったり、それを通して「自治領域」(=孤立を通じて自己対話的な遊びをするための領域)を作ることで、退屈や不安とほどほどに向き合っていくことを提案している。
気づいた点
自己啓発にハマってるということ
自己啓発的な考え方に無意識のうちにハマっているなということにきづいた。特にここ数年の活動を振り返ってみて、自己啓発的に踏ん張ろうとし、なんとなくうまくいかないような気持ちをずっと抱えていたこと、自分についての異常な関心(Twitterの投稿をみればよくわかると思う)、あらゆることを個人の問題として片づけすぎていた(例えば、睡眠を薬で対処している)ことに気が付いた。気づかなかった要因としては、自己啓発という概念をよく聞くけれど、その意味をわかっていなかったからだと思う。本書で紹介されていた、牧野智和研究
を読んで見ようと思った。
よく分からない点
なぜネガティブケイパビリティが最近はやっているのか。歴史における立ち位置
ネガティブケイパビリティという概念を最近よく目にするようになっており、それがどういう流れで興隆しているのか、この本を読んでもよくわかっていない。今のところ、以前読んだネガティブケイパビリティ
SNSコミュニケーションを否定する論調の多さ
以前から何冊か本を読む中で、特にメディア論の文脈?でSNSコミュニケーションへの警鐘をならす論調が多いなと考えており、どうしてそのような流れになっているのかはよくわかっていない点として挙げられる。
下記は私のアカウントでその違和感について投稿したものである。
備忘録的に引用しておく。
感想
印象に残った部分としては、序文の中の哲学を医学に喩える視点である。
私が哲学に求めていることを言語化してくれていると感じたからである。これまで、私は昔から度々感じていたいろいろなことに対する問いを解決しないまま、とりあえず目の前のものにしがみついて生きてきた。しかし、その結果、どうも目の前のことに集中できず、堂々巡りの中に立ちすくんでしまうことが起き、困っている。これを解決するために、つまり治療行為として哲学に触れる機会を増やしている。そういった視点を言語化してくれているエピクテトスの話を知れたのは自分にとって良かったのではないかと思う。近年の哲学ブームも、医療的行為としての哲学が必要とされている結果でもあるのだろうかと想像した。
基本的この本の著者の哲学観や哲学に対する姿勢(二章 : 自分の頭で考え ないための哲学 参照。)はすんなり入ってきて、理屈として違和感を感ずるところはほとんどなかった。(実践ができるかというとそれは別の話だが。)そのため、今後哲学系の本を読むときの基本姿勢として参考にしようと思った。