対話なんて面倒くさい
たまたま同じタイミングで目にした2つの記事。対話や言語化といった、自分が大切にしていることについて、あらためて考えさせられた。
「対話」や「言語化」といった行為は、いっけん「美しい」こと「善い」ことと捉えられがちだ。その責任の一端は僕にもあって、僕が「対話」や「言語化」の大切さについて、滔々と語るものだから、聞く側はその内容もさることながら、それを語る僕の様子から何かを感じ取って、「やっぱり対話って大切ですね」と得心してしまう(のではないかと、私は勘ぐってしまう)
でも、実際に「対話」や「言語化」をやろうとすると、それは確かに「美しい」ことだし「善い」ことかもしれないけど、それ以上に「面倒くさい」ことなのだと気づく。
《まず自分の考え、相手に伝えたいことを明確にして、それを言語に落とし込んで、しかも相手に伝わるレベルの言葉に翻訳して、その上で相手に聴こえるタイミングで伝え》ることが、どれくらい面倒くさいかというと、2つ目の記事にある以下の引用部分がわかりやすい。母親が息子に対して「ゲームをやめて早くごはん食べなさい」ということで喧嘩したあとの場面。息子は怒って家出しようとしている。
「対話」や「言語化」の大切さや、そのための方法を説明したあとに、「大切なのはわかるんですけど、難しいですよね」「忙しくて、なかなかそんな時間とれないですよね」と言われることも多い。僕はこういうとき「この人わかってないな」と憤ったりすることはないし、「育成に対する意識が低いな」と嘆いたりもしない。だって、そのとおりだから。そう、間違いなく「面倒くさい」のだ、「対話」やら「言語化」などということは。
だから、「対話」や「言語化」というのは、「できる/できない」といった、能力や制約条件の問題ではないと思っている。そうではなくて、「やる/やらない」という、本人の選択の問題だと思っている。
総論としては「美しい」ことだし「善い」ことなのは、頭ではわかる。でも、各論として「やる」という方向に身体が動くかは、また別の話。僕も、忙しいときや疲れているときは、たとえばメンバーとの1on1をリスケするといった、「やらない」選択することがある。
一個人としての僕は、どっちつかずに揺れながら、こんなふうに「対話」や「言語化」を捉えている。
こんな感じで、決して目をキラキラさせて、毎回100%全開で対話しているわけじゃない。大切さと面倒くささをいつも天秤にかけて、そうするとほんの少しだけ、大切さが勝るので、たとえそれが不完全なものであったり、小さなものであっても、なんとかかんとか、「やる」を選択している。あまりかっこいいものではないけれど、でも、それが僕の身の丈にあった「対話」や「言語化」との距離感だ。
これを次は、企業人事として、組織の中に「対話」や「言語化」を広げていくという立場で考えてみる。
それが本人の選択の問題だとするならば、「対話」や「言語化」を促す立場からできることというのは、それらの価値に共感してもらい(やるとよさそう)、それらの方法を理解してもらい(やればできそう)、それらを続けられるように励ます(一度やめてしまったけど、またやってみよう)ことかなと思っている。
スピード感(制度化して一気に展開)やKPI(評価指標に組み込む)といった価値観からはかけ離れた、生ぬるいアプローチかもしれないけど、そういうものだと思っている。だって、あなたの目の前で「対話しよう」と言っている相手が、その頭の中では「制度になったし」「評価されるし」と思ってるがゆえに近づいてきたのだとしたら、そんな茶番につきあいたいだろうか。
「対話」や「言語化」は、面倒くさい。「だけど、やる」を選ぶ人が増えるように、できることをやっていきたい。
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