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「この半年、私は大きく成長した」と胸を張って言えますか?

2021年も折返しを過ぎたということで、「上半期を振り返って」「下半期に向けて」といった言葉を見聞きすることが増えました。

〈あなたは、上半期にどんなことを経験しましたか?〉

人が成長するためには、書籍や研修といった学びだけでなく、実務における経験が大切、ということに異を唱える人は少ないはずです。

まず、仕事は「やらないと」できるようにはなりません。
いくら人から聞いたり、人のやっているところを見たりしたとしても、自分で経験しなければできるようにはならないのです。

人材育成業界でよく引用される数字として、「70:20:10」があります。
これは、「人は経験からの学びが7割、他者からの学びが2割、研修からの学びが1割」という意味で使われます。

(中略)この数字は、私たちの肌感覚から言っても「確かにそうかもしれない」と納得する部分もあるのではないでしょうか。

対話型OJT 主体的に動ける部下を育てる知識とスキル』より

そこで、次にこんな問いを。

〈あなたの上半期の経験は、あなたにどんな成長をもたらしましたか?〉

冒頭の《あなたは、上半期にどんなことを経験しましたか?》という問いに比べて、《あなたの上半期の経験は、あなたにどんな成長をもたらしましたか?》という問いは、答えに窮するのではないでしょうか。

それはなぜでしょう? 「たいした経験をしなかった」あるいは「成長しなかった」からでしょうか?

「たいした経験をしなかった」「成長しなかった」という、鬱々とした反省モードがちらつき始めたので、ここで少し視点を変えてみましょう。

あなたは、たくさんの経験をした。
あなたは、大きく成長した。

まずは、この2つを、疑う余地のない前提としましょう。そうすると、問いは次のように、あなたの内面に踏み込むもの、すなわち自分事の問いに変わります。

〈あなたは、たくさんの経験をし、大きく成長した。それなのに、そのことを実感できないのはなぜだろう?〉

この、あなたの内面に踏み込む問いを考えるヒントとして、次の引用を読んでみてください。

労働時間が長いマネジャーは、営業の勝ち筋がわかっていない。

できるマネジャーは、営業で何か問題が生じたときに最短ルートで解決する方法をメンバーに指示できる。
マネジャーについては、できる人ほど短い労働時間で高い成績を上げる。

逆にできないマネジャーは、試行錯誤を繰り返しているうちになんとなく数値はとれても、それが理論化できないものだから、ほかの機会でまた試行錯誤することになる。
結果として、マネジャー自身もメンバーも労働時間が長くなってしまう。

働き方改革時代にマネジャーは何をすべきか―働き方改革の中間報告―』より

このマネジャーは、《労働時間が長い》のだから、その労働時間の中でたくさんの経験をしているはずでしょう。《試行錯誤を繰り返している》《ほかの機会でまた試行錯誤する》という点からも、たくさんの経験をしていることが伺えます。そして、《数値はとれて》いるわけですから、メンバーからマネジャーへと成長したのでしょう。

このマネジャーは、たくさんの経験をして、成長もしている。あなたに重なるところがありますよね。

〈あなたは、たくさんの経験をし、大きく成長した。それなのに、そのことを実感できないのはなぜだろう?〉

このマネジャーが経験や成長を「実感」しているかどうかは、上記の引用からは読み取れません。しかし、あなたに課されたこの問いを引用部分にかざしてみると、そこには《理論化》というキーワードが浮かび上がってくるのではないでしょうか。経験と成長と実感をつなぐ、《理論化》という橋。

《理論化》とはどんなもので、どう活かすのかという点で、さきほどの引用に続く文章があります。

そういったところは、本人の能力の問題やこれまでのキャリアでどういった経験をしてきているかも関係するが、本人が自覚して訓練することで伸びる部分もかなりあると思う。

実際に、私も育成勉強会のようなものを部内で作って、育成している。
具体的には、特定のミッションを達成するためにどういったアプローチをしていけばよいかマネジャーに考えさせ、それについて一緒に議論している。
これをやると、実際にマネジャーの行動変化につながるなど、それなりの効果が出るという感覚がある。

働き方改革時代にマネジャーは何をすべきか―働き方改革の中間報告―』より

《どういったアプローチをしていけばよいかマネジャーに考えさせ、それについて一緒に議論している》という過程を通して、マネジャーが自身の経験を《理論化》することを促しています。そして、経験が《理論化》されると、《マネジャーの行動変化》が引き起こされる。その《行動変化》をマネジャー自身が実感することもあるでしょうし、そうでなくても、周囲が「良くなったね」と伝えることで、実感を生むこともあるでしょう。これが、《理論化》という橋が、経験と成長と実感をつなぐ瞬間です。

We do not learn from experience ... we learn from reflecting on experience.

人は経験から学ぶのではない。…学びは、その経験から何をどう思い、どう感じたかを省みることで起きる。

ジョン・デューイ

経験は大切。経験が人を育てる。でも、人を育てるためには、《その経験から何をどう思い、どう感じたかを省みる》という、経験の〈持論化〉までが必要。

《理論化》と呼ぶと、個人に依存しない、客観的に一意な正解を想起させてしまい、敷居が高く映ってしまいます。しかし、一個人の経験から導かれるのは、「その人のなかでは」という限定されたなかでの一貫性が担保された持論に過ぎないのであり、また、それで構わない。そういう意味で、私は〈持論化〉という呼び方を好んで使います。(それぞれの人の持論を俯瞰して、さらに抽象度を高めたものが、理論にあたります)

〈持論化〉は、外化と抽象化に分けられます。自分の「中にある」経験を、言葉にすることで外に出す外化。外化された経験を、自分自身で語り直す、あるいは、他者と語り合うことで、その意味を再定義する抽象化。外化と抽象化を繰り返すことで、素材としての経験は、持論というかたちで食卓を飾ります。

経験はしているけど、〈持論化〉に至っていない人は、他人になにかを教えるときに、こういう言葉しか持ちえません。

「私はこうやってきた(なぜかはわからない)」
「よく見ておけ」

いわゆる、背中を見て学ぶ、というやつです。昨今は隠避されがちな背中を見て学ぶアプローチですが、これはこれでメリットもあると思っているので、それ自体を一概に否定するつもりはありません。背中を見て学ぶことのポジティブな側面については、別の機会に書いてみたいと思います。

しかし、こと自分自身について、つまり、自分で自分を成長させるという点においては弊害が大きいです。そう、《あなたは、たくさんの経験をした》《あなたは、大きく成長した》はずなのに、それを実感できない、という弊害です。経験と成長と実感の間に、橋が架からなくなってしまう。

経験がどのように成長につながっているのかを実感できないから、実務においては《試行錯誤を繰り返して》《ほかの機会でまた試行錯誤する》という無限ループが回り、自身の中では自己効力感の欠如に苛まれます。

探しものが隠れている場所は、脇目や道草や余白といった、いままで見ていなかった場所だったりします。実は、いちばん見ていなかった場所が、自分の経験(自分の中)だったりする。自分の中を掘るからこそ、内省(内を省みる)と言えるのです。脇目を振ろう。道草を食おう。余白を残そう。

2021年の半分を振り返るときにはぜひ、《あなたは、たくさんの経験をした》《あなたは、大きく成長した》という前提を置いたうえで、自身の経験を〈持論化〉してみてほしいなと思います。

自分の経験を、箇条書きでいいから書き出す。それが経験の外化になる。

書き出したものを声に出して読んでみるのも、良い。自分が書いた文字を、自分の声に換えて、自分の耳に入れる。耳からもう一度入れ直した、自分の経験は、頭の中にあっただけのときとは、違った見え方がするかもしれない。声に出して読むことは、外化と抽象化を同時に引き起こします。

そして仕上げに、他人に話してみる。他人に話〈そう〉とすると、他人に話〈せる〉かたちに自分の経験を捉え直さざるをえなくなります。他人に話せるかたちというのは、他人が理解できるかたち、ということです。そう、あなたの中にあった《素材としての経験》は、《他人が理解できるかたち》を媒介にして、その《意味を再定義する》ことになるのです。これが抽象化です。

〈あなたの上半期の経験は、あなたにどんな成長をもたらしましたか?〉

外化と抽象化という、〈持論化〉へのステップを踏んだ後のあなたは、この問いに対して、どんな思いが浮んできますか?

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