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なぜ学校で「役に立たなそうなこと」を学ぶのか?

noteのフォロワーさんの記事を読んでいて、いろいろと考えるところがあった。

テーマは、「勉強」について。書かれていることに意義を唱えるわけではないし、そもそも明確な答えなど持っていないので、記事の内容とはあまり関係ないかもしれないが、少しこれについて考えてみる。

社会人になると、学校って変な場所だったなとつくづく思う。僕はわりと学校そのものは楽しんでいたほうで、やりたいことをやりたいようにやっていた記憶がある。だが、自分はよかったものの、当然学校に馴染めない子もいるだろう、というのは理解できた。

振り返っても、人生で最も多様な人たちと一緒の時間を過ごす空間だったような気がする。社会人になると、もちろんいろいろな人々と接するのだが、基本的には会社員は同じ目的のために集まっていて、志向的にも似たような人たちが多いはずだ。

学校にいる生徒たちは、やりたいこと、性格、家の経済状況などなど、全然違う人たちが集まっている。勉強の内容も多種多様で、ありとあらゆることを詰め込まれるのだから、客観的にみてかなり過酷な環境と言っていいだろう。

大学以降の教育では、基本的には自分の専攻しているテーマがあって、それを突き詰めていくことになるのだが、小中高ぐらいまでは自分に全く興味がなかったり、向いていないような学問も詰め込まれることになる。

一日に5つも6つも全く違うジャンルのことに取り組まなければならないというのは、よく考えたらかなり過酷なことである。逆にいうと、小さい頃でないとなかなかできないだろう。

勉強の意義ってなんだろうか? あまり勉強が得意な方ではなかったので、これについてはよく考えた。一番シンプルな答えは、「良い学校に進学するために必要なもの」ということだ。

なぜ良い学校に進学する必要があるか? といえば、良い会社に就職するために必要なプロセスだからだ。そのような「道具」として勉強をとらえている人がほとんどではないかと思う。しかしいうまでもないことだが、勉強は本来もっと広い意味であり、受験勉強だけが勉強ではないというのは自明のことだ。

勉強の中にはのちのち役立つ便利なものもあれば、なんの役に立つんだろう? と思えるようなものもある。有用かどうかは関係なく、とにかく「詰め込まれる」のが学校教育だ。なぜそんなことをするのだろうか?

先日、福島の会津若松に旅行に行った。事前に少し現地の歴史を調べてから行ってみたのだが、義務教育を受けているので、明治維新や戊辰戦争といった基本的な認識はある。

知識と言えるほどの知識は無いのだけれど、一応日本史の流れというのが教育によってインプットされているので、戊辰戦争、ああ聞いたことあるよ、という感じでスムーズに調べていくことができた。

もし自分に全く何の知識もない国の歴史だとしたら、そもそもの時代背景から理解しなければならないので、時間がかかるし、なんともピンとこなかっただろう。歴史を勉強して何かの役に立ったという実感は無いのだが、点と点がつながる感覚というか、「それはそういう経緯だったのか」と面白さを感じる瞬間には出会えたと思う。

頭が柔らかい子ども時代に、役にたつのか一切わからないままとりあえずインプットしておいたということで、大人になってそれが教養として生きてくる側面はあるな、と感じている。

「役に立つこと」は、必要になったら学べばいい。必要になってから学んでも十分間に合う。「役に立つのか立たないのかわからないこと」は、放っておくと一生学ばないので、子どものうちにインプットしておく必要がある、ということだろう。

究極のところ、学校で教えられる勉強の特徴は何かと言えば、「一生変わらない情報」ということだと思う。子どものときに学んだことは基本的には一生変わらない。

もちろん教科書の改定等によって少しずつ変化はしていくが、それでも世の中に溢れているその他の情報と比較すると、はるかに変化しにくい。数学や物理、国語などは、100年経ってもほぼ全く変わらないだろう。

その辺の本屋で売っている本を考えてみるとわかる。100年後にも通用する内容の本はなかなかない。つまり変わらない情報ということで、それがものを考える基礎になるということだ。

でも、抽象的な学問としてのインプットだけだと、誰もそんなものを身に付けるモチベーションが湧かないので、ご褒美として良い大学に進学できるとか、良い会社に就職できるとか、そういった特典がついてるようなものなのだと思う。

なぜそれが成り立つかというと、テストでいい成績をとるためには計画性と継続的な努力が必要であり、「そういうことができる人間です」とアピールできるからだと思う。

受験勉強は本当の学問じゃないという意見もあるが、実際に受験勉強で良い成績を残して良い大学を出た人が、世の中を動かす中心となっているのだから、本当の学問といっても良いのではないだろうか。

日本の古典の「徒然草」の中の一節に、こういうものがある。「狂人の真似とて大路を走らば、すなわち狂人なり」。その続きのなかに、「偽りても賢を学ばんを、賢と言うべし」という部分がある。偽りでも、賢者を学ぶ者を賢者と呼ぶのだ。

受験勉強は本当の学問ではないかもしれないが、それを学ぶことで、本当の学問につながっていくということはあるのではないだろうか。

実際のところ、学校の中の環境はあまりにも特殊すぎるので、たとえそこに適応できなかったとしても悲観する事はない。他に生きる方法などいくらでもある。

でも、基本的にはある種の社会の訓練だと思って、学校での勉強は粛々とこなしていくのが良いのではないだろうか。

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